香室結美(ジェンダー・セクシュアリティ班)ナミビア 海外出張期間:2017年8月18日〜9月16日

「祝福の子どもたち:ナミビア・ヘレロ人の<養子>と家族ネットワーク」
香室結美

(派遣先国:ナミビア/海外出張期間:2017年8月18日~9月16日)

調査地の村で、家の主の女性Eと彼女の「娘」Bと一緒に野菜の皮を剥きながら、ヘレロ語ラジオを聞いていたとき、ショッキングなニュースが流れてきた。ウォルビスベイの砂漠で女性が子どもを産み落とし砂に埋めていたところ、赤ん坊の泣き声に気づいた通りかかりの人が通報したという。警察が赤ちゃんを必死に砂から掘り起こし病院に連れて行き、女性は逃げたが捕まった。EとBは私に「聞いた!?信じられない!」と声をかけた。Bは1歳の男の子を育てており、「避妊の方法はいくらでもあるのに・・・子どもを埋めるなんて」とつぶやいた。その日、Eは村人の男性が庭に寄った際も「聞いた!?」とニュースの内容を話題にした。ナミビアでは、レイプされた時以外、堕胎は違法である。「日本では違法じゃないよ」というと、3人は一瞬、考え込んだ顔になった。私も一瞬、自分がとんでもなく子どもを大事にしない国に住んでいるような悪い気持ちがして、どういう顔をすればいいかわからなくなったが、Eは「ナミビアでも堕胎を認めるかどうか議論がされていて、認める流れなんじゃないかな」という。子どもを捨てる親も結構おり、社会問題になっているそうだ。ニュースの女性は、「彼氏が子どもを欲しくなかったから」捨てたという。ちなみにBは子どもの父親と来年結婚する計画を立てているが、父親がどこまで本気かについて周囲の親族はかなり疑っていた。

さて、ヘレロの人たちは堕胎に否定的なのだが、働かなくてはならない、育てられないと困った時どうするかというと<養子>に出す。今回の調査の主な目的は、このヘレロの<養子>がどういうものかを明らかにすることだった。ヘレロの年輩女性は幼い子どもと一緒に住んでいたり連れていたりすることが多く、その子どもたちが誰の子なのか、親は何をしているのかがかねてからの疑問だった。そして上記のBも、彼女を産んだ時母親が10代前半で育てられなかったためEに<養子>に出されたのだった。「」付きで「娘」と記したのはそのためである。

[写真1] E、<養子>のB、Bが産んだ息子I。


[写真2] Eが産み育てた息子P、Bの「兄」、Iの「叔父」になる。

なぜヘレロは<養子>に出すのかとEに聞くと、「家族の繋がりを強くするため」だという。何も困ったことがなくても、母親は産んだ子どもを自分の母親や母系出自(エアンダ)が同じ親族の女性に<養子>に出す。そうすることで家族間の行き来が増え、絆が強まるという。子どもたちは自分を産んだ母親と父親が誰か、長い間知らないこともある。Eが産んだ長女は3ヶ月ほどでEの母親の姉妹に<養子>に出され、次女も<養子>に出された。E自身も<養子>に出された。ヘレロ人男性Cと話していた時、彼は「ヘレロの子どもは祝福されるべき存在。堕胎はあまり考えられない」と言った。そしてC自身も、中学生の時に親戚の家に<養子>に出されたという。

ヘレロの<養子>は英語でいうと“adoption” だが、ヘレロ語では単に「子どもを育てる、世話をする」(okuvera omuatje)となる。子どもを受け取った人物はその子を自分が産んだ子と分け隔てなく育てるため、特別な単語がないのである。「親」になった人物は、家にやって来た子どもの衣食住を世話し、学校に行かせる。彼女たちは子どもの移動をヘレロの「文化」だといい、家族の繋がりを保つために重要だという。

ところが、インタビューをしてみると20〜40代の親にはこの<養子>を否定的に捉えている人が多いこともわかった。自分の子どもは自分で育てたいという考えが強くなっているのだ。その理由について、自分が養子として実の子と区別され不遇な生活を送ったり、進学する度に違う町の親戚の家にたらい回しにされたりと、嫌な思いをしたことを語る者もいた。「なぜ母は私を自分で育てず養子に出したのか」という根深い疑問を長年抱えている人もおり、「家族の繋がりを強くする」という自明のストーリーが疑われ、実母・父の無責任が問われ始めていた。子どもの数も避妊によってコントロールされており、60〜80代の女性たちのように5〜10人近く子どもを産むわけではない。

人々の意識の変化により、ヘレロの<養子>は今後少なくなっていくと予想される。しかし、いざ産んだけど育てられない、あるいは産みたいけど育てられないかもしれないという時、このようなシステムを柔軟性のある子育てセーフティネットと考えれば、親にとって非常にありがたいのではないか。少なくとも、働いている調査者にはそう思えた。また、社会全体が産まれてくる子どもを祝福し受け入れてくれることは、親にとって非常に安心できる状態だといえよう。今後ヘレロの<養子>が親族間の関係性の強化として肯定的に捉えられ続けるのか、生物学的親の無責任として否定的に捉えられていくのかについては引き続き調査が必要だが、ヘレロの人々が子どもをどう捉えているのかがより理解できたいま、家族の関係性がより特別なものに見えてきた。

帰国後、BからSNSでメールが来た。「お姉ちゃんお願い、パソコンが欲しい。3400ナミビアドルするんだけど買ってくれない?ほんとお願い」。Eは私を家に迎え入れてくれた私の「母」であり、Bは彼女の「娘」なので、私はBの「姉」である。私は今までこのようなお願いをリッチな日本人に見える私に対するたかりだと考えていたところがあり、適当に流すことが多かった。しかし、彼女は私のことを実の姉と思って頼っていたのだ。私がナミビアにいない間も彼女は絶やさずメールをくれ、食べ物や服をシェアしないと「なぜ!?」と怒り呆れた。私は彼女のことを「妹」と呼び大事にしていたつもりだったが、どこかで実の妹とは思っていなかったのだろう。ケチで薄情な姉だといわれてもしょうがない気がしてくる。そうなると、私はBを裏切るわけにはいかず、パソコンを買わねばならないだろう。

[写真3] 首都ウィンドフック、ロングドレスのOuma(おばあちゃん)を囲む<養子>の子どもたち。
EもOumaに育てられた。左から3人目の女性はOumaが産んだ娘。中学校に通うため、Bは首都のOuma宅で暮らすようになった。

一條博亮(対立・共生班)ギニア 海外出張期間:2017年9月9日〜23日

「ギニアの政治犯収容所:過去の清算への努力と課題」
一條博亮

(派遣先国:ギニア/海外出張期間:2017年9月9日~23日)

西アフリカの仏領ギニアは1958年9月28日に行われた国民投票により、フランスからの即時完全独立の道を選ぶ。それを主導したのが後にギニア共和国初代大統領となるセク・トゥーレ(Ahmed Sékou Touré)で、彼が仏首相ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle)に対して述べた「隷属の下での豊かさより、貧困の下での自由を選ぶ(Nous préférons la liberté dans la pauvreté à la richesse dans l’esclavage.)」という言葉は有名である。

国立博物館敷地内のセク・トゥーレ像(コナクリ)

社会主義国家の設立を目指したセク・トゥーレだったが、その急進的な政策により経済は低迷し、政府内からも批判の声が聞こえるようになった。そんな彼が政権維持のために頼ったのが親族・縁者で、彼らを政権内に入れて多数派を構成することで批判の声を封じた。そしてもう一つ彼が政権維持のために利用したのがカン・ボワロ(Camp Boiro)をはじめとした政治犯収容所である。カン・ボワロは首都コナクリ(Conakry)のカマイエンヌ(Camayenne)地区に存在するセク・トゥーレへの忠誠を誓う共和国防衛隊の兵舎であったが、その一角に政治犯収容所が併設された。そこには敵への内通や反乱を疑われた人々が収容され、拷問により自白が強要された。そして裁判にかけられることなくある人は死刑に、またある人は長期の拘束を余儀なくされたのである。政治犯収容所はセク・トゥーレが亡くなる1984年3月26日まで存続し、約25年間の治世の間にここで処刑された人の数は5,000人とも50,000人ともいわれている。

今回の調査ではカン・ボワロの訪問と、関係者・研究者への聞き取りを行った。

カン・ボワロ外観

カン・ボワロは現在ギニア国軍の兵舎として利用されている。そのため内部に入ることはできず、またかつてあった収容所も第二代大統領ランサナ・コンテ(Lansana Conté)によってすでに取り壊されている。私は2010年と13年にもここを訪れたが、その時と比べて明らかに雰囲気が変化していた。当時のカン・ボワロは正門が固く閉じられ、その両脇には銃を持った門番と大砲が目を光らせていた。またカン・ボワロの周りを囲む壁のあちこちに見張り台があり、そのほとんどに銃を持った見張り兵の姿があった。しかし今回訪れてみると正門は常時開けられたままで、その両脇の門番と大砲は変わらないものの、門番や出入りする人々の表情はとても穏やかであった。またどの見張り台にも見張り兵の姿はなく、壁を越えて出てきた若者に出くわすという場面もあった。正門から内部を見る限り新しい建物があるなど整備されており、収容所だけでなく兵舎に関してもセク・トゥーレ時代の建物は消え去ったようである。研究者の話によるとこれらカン・ボワロの整備は第三代大統領ダディ・カマラ(Moussa Dadis Camara)の頃より始まり、現場の保存を求める遺族会などが反対したにもかかわらず行われたという。

 

聞き取りに関しては、遺族会と研究者それぞれに対して行った。なお今回の調査では過去について質問するのではなく、解決に向けて現在どのような努力が払われており、どのような問題があるのかに絞った。

遺族会は政府に対して真相の解明を求めており、具体的には①行方不明者の捜索、②埋葬場所の発掘、③責任の所在の追求の3点をあげている。そして1971年に大量の処刑が行われた1月25日を記念日として毎年集会を開き、政府への訴えを続けているとのことであった。そこでかつてセク・トゥーレ時代に自身も欠席裁判で死刑判決を受けたことがある現大統領アルファ・コンデ(Alpha Condé)が就任してから進展があったかどうか質問してみたが、彼も何もしてくれないという答えであった。

これについて研究者に質問すると、アルファ・コンデはわざと何もしていないという答えが返ってきた。ギニアでは初代大統領のセク・トゥーレだけではなく、第二代ランサナ・コンテや第三代ダディ・カマラの時代にも迫害や虐殺があり、それらも未だに真相が解明されていない。そのためアルファ・コンデ自身がかかわったからと言ってセク・トゥーレ時代だけを対象とすることはできず、もし行うのであればすべての政権が対象となる。しかし彼は経済や国家の立て直しといった現在の問題に忙しく、過去の問題に手を回す余裕がない。そのため彼が政権に就いている間は現在の問題に専念し、過去の問題は次の政権に任せるのではないか。また彼がかかわらない方が公正な調査ができるのではないか、とのことであった。

またカン・ボワロについては民族による見解の相違もみられた。カン・ボワロでの被害者はギニアの最大民族(国民の約40%)であるプール系が多く、当然遺族会のメンバーもプール系が多い。そして彼らが様々な手段や機会を通して宣伝したこともあり、セク・トゥーレに対する現在の世界的な評価は悪政一色といえる。しかし彼と同じソニンケ人(マンデ系)の研究者はプール系の人々はカン・ボワロのことを宣伝し過ぎであり、セク・トゥーレは確かに悪政も多かったが善政も行っており、現在の評価は偏っているという。またランサナ・コンテ時代に迫害された人々はマンデ系が多かったが、彼らはそれほど声を上げなかったため、現在それについてはほとんど知られていないという不公平感を語ってくれた。

 

今回の調査では自分の語学の問題と時間的な制約もあり、必ずしも十分な調査ができたわけではない。今後は文献研究をしながら語学を磨き、再度現地での聞き取り調査を行いたいと思う。

平野(野元)美佐(対立・共生班)フランス、カメルーン 海外出張期間:2017年2月19日〜3月5日

「亡き首長との邂逅とヤウンデの商人たちとの再会」
平野(野元)美佐

(派遣先国:フランス、カメルーン/海外出張期間:2017年2月19日~3月5日)

今回の渡航では、まず、南仏エクサンプロバンスに滞在し、「国立海外文書館(ANOM)」で、カメルーンの紛争に関する資料収集をおこなった。長年行きたいと願っていたが、今回が初訪問となった。ANOMには、アフリカをはじめとする旧フランス植民地の行政文書、新聞、写真、地図などが保管されている。カメルーン独立前、バミレケやバッサなどの民族が中心となって結成した政党UPC(カメルーン人民同盟)の動向や、独立運動が禁じられたUPCがやむなく始めた「ゲリラ戦」に関して、多くの資料や新聞記事が見つかった。1950年代後半、西部州西側のバミレケ・ランドはゲリラ戦の舞台となり、大きな被害が出た。バミレケ・ランドは、100以上の首長制社会が存在する地域だが、首長やその宮廷はゲリラの襲撃対象となっていた。首長たちは、フランス植民地政府とUPCとの間で板挟みになり、UPCに共感すればフランス政府から迫害され、フランス政府の側にたてばゲリラに襲われたのであり、その難しい立場を再認識した。

ANOMで乾いた文書をめくり続けていると、植民地当時の様子が心にせまってきた。ドイツからカメルーンを奪ったばかりのフランス植民地政府は、ドイツ人をいかに追い出すかに頭を悩ませ、なにかあれば隣のイギリス領ナイジェリアに逃げ込むカメルーン人に手を焼いていた。導入された人頭税の各「部族」の割り当て人数表からは、当時のカメルーンの人々の困惑を感じた。フランス人行政官の出張報告書からは、アフリカその他、世界中のフランス植民地の行政官と「業績」を競い合う役人の姿が目に浮かんだ。嬉しかったのは、私が調査していたバングラップ首長制社会のK首長の若い頃の写真を、1955年の新聞記事で見つけたことである。その写真を見つける確率はなかなかのもので、「今後もバングラップと関わっていくように」と、2004年に80歳代で亡くなったK首長に励まされた気がした。

カメルーンでは、1997年~98年に聞き取りをさせてもらったインフォーマルセクター従事者たちを訪ねた。2006年にも再訪問をおこなったが、今回はさらにその10年後、つまり聞き取りから20年がたっての再訪問である。すでに亡くなっている人もいれば、消息が分からない人もいる。今回の渡航では、古本業2名、金物業、市場の食糧品屋、自動車修理工、鉄製機械職人、印章屋、靴修理屋、コピー屋、中古靴屋のみなさんと再会することができた。古本業のうちの一人は同じように露店で古本を売っていたが、もう一人は、新品の本や学用品を扱う常設店舗を構え、本屋を経営していた。1997年には露店の荷車で商売をしていた金物業者は、10年前は店を構えて事業を拡大していたが、現在金物業は前ほどうまくいっていないという。そのため地方に畑を購入し、食糧を生産・販売することをもくろんでいた。市場の食糧品店主は、20年前からその市場の女性リーダーをしており、彼女のビジネスは前よりも大きくなっていた。自動車修理工も、前より大きなガレージで仕事をしていたが、さらに大きなガレージにするために空港そばに広い土地を取得していた。鉄製機械職人はアトリエで、現在製作に取り組んでいる農機具をみせてくれた。現在はガボンなどに講師として出向くことがあり、機械製作を指導しているという。路上の印章屋は、市当局に指導されかつての露店のそばの常設店で仕事をしていたが、手作業ではなくコンピューターを導入して印章作成をするようになっていた。靴修理屋は、以前と同じく掘立小屋の店舗で靴修理を続けていた。路上のコピー屋をしていた女性は、コピー機の故障が多くその仕事を諦め、同じく露店で携帯電話のクレジットを売る仕事にかわっていた。中古靴をヤウンデ最大のモコロ市場で売っていた商人は、中央市場で女性服を売るようになっていた。

インフォーマルセクターというと、融通無碍で定着しないイメージがあるかもしれない。しかし紹介したように、再訪できた人たちは、同じ場所で(あるいは市当局に移動させられたなどやむを得ない事情から別の場所で)、同じような仕事を続けており、なかには事業を大きくしている者もいた。不安定な環境ながら、同じ場所(となじみの客)、同じ商売にこだわることで仕事を安定させ、一定の収益を得、自分や家族の生活を支えてきたのである。まだ再訪は途中であり、今後も20年後の調査を続けていきたいと考えている。

ヤウンデに暮らすことは、私が調査をはじめた1990年代よりも厳しくなっているようにみえる。そこにどのような潜在力が働き、人びとの暮らしを支えているのかを、このプロジェクトを通して明らかにしたいと考えている。

拡大を続けるヤウンデの町

沓掛沙弥香(言語・文学班)タンザニア 海外出張期間:2017年2月2日~3月1日

「タンザニアにおける言語格差の表出:学校教育と言語」
沓掛 沙弥香

(派遣先国:タンザニア/海外出張期間:2017年2月2日~3月1日)

タンザニアは、スワヒリ語に国家語(national language)と公用語(official language)としての地位を与えています。その一方で、英語も公用語として使用されています。しかし、同様に「公用語」としての地位が与えられていても、スワヒリ語と英語の間には、社会的役割の差が存在しています。

タンザニアでは、小学校教育の教授用言語はスワヒリ語ですが、中学校以上の教育では教授用言語が英語に変わります。中学校以上の教育で英語が使用され続けていることは、英語がタンザニアにおける社会的高位の言語として君臨し続ける要因となっています。また、独立当初社会主義政策を掲げていたタンザニアでしたが、1986年に構造調整政策を受け入れ、1990年代に教育の自由化を行うと、英語を教授用言語とする私立小学校が急増しました。児童数の増加に対応しきれず公立小学校の「教育の質」の低下が著しい一方で、私立小学校が有利な教育環境を有している状況が、それらの学校が使用している言語が英語であるという状況と相まって、英語の社会的価値をさらに高める結果となりました。

このような状況があったものの、スワヒリ語という一つの言語で理解し合えることは、タンザニアの人々の中に「Umoja(unity, 統合)」の意識を形成しており、他のアフリカ諸国に見られるような言語格差による不平等性は、タンザニアではあまり深刻な問題として社会に認識されていない状況でした。しかし、私の近年の調査では、このような状況に変化が表れてきていることが確認されています。これまで、タンザニアにおけるスワヒリ語と英語の相克状況というのは、英語を教授用言語とする中学校以上の教育への進学率が高く、英語を教授用言語とする私立小学校へのアクセスも可能な都市部における研究課題となっていました。ところが、私が2015年、2016年に行ったタンザニア南部の地方都市および農村部においても、人々は英語の習得に積極的な態度を示しており、英語へのアクセス権において、大きな格差が存在していることを問題化していたのです。結果として、多くの人々の発話の中に、英語へのアクセスや教育機会の格差に伴う「階層(tabaka)」や「差別(ubaguzi)」のような単語が散見されました。このような変化は、独立以来人々の間で強く信じられてきた国家統合の意識にも影響を及ぼすかも知れない重要な変化です。私のこれまでの研究では、地方都市における英語へのアクセス権に絞って研究していましたが、今回の渡航では、比較対象としてもっとも恵まれた教育環境にアクセス可能な地域と考えられるタンザニアの首座都市ダルエスサラームにおいて調査を行ってきました。

調査では、ダルエスサラーム州内の2つの私立小学校(英語を教授用言語とする)において聞き取り調査と参与観察を行い、また、英語による教育を受けた方や、自分の子どもに英語による教育を受けさせている方4人に、英語に関するインタビュー調査を行いました。

H小学校(私立)の歴史の授業の様子(ダルエスサラーム)

P小学校の英語の授業の様子(ダルエスサラーム)

子どもたちは一人一人、教科書、ノートを持っています。筆箱や水筒も。また、イスも一人に一脚、机は2人で一台ですが、十分なスペースが確保されています。

タンザニア南部における調査では、基本的に人々が公立小学校にしかアクセスできない環境の中で、英語を教授用言語とする学校で教育を受けることができる人との格差が問題になっていました。実際、農村部には私立小学校自体が存在せず、あったとしても、農業従事者にとって私立学校で子どもたちを学ばせるための学費を得ることはほとんど不可能な状況ですから、当然の状況と言えます。(例えば今回調査した私立小学校の1つの学費は1,500,000Tsh/年、日本円で約74,000円/年でした。タンザニアの公立学校の教師の給料が3,000,000~5,640,000Tsh/年、日本円で144,000~280,000円/年であることを考えると、非常に高額です。)しかし今回の調査では、英語による教育の中にも支払う金額による格差があることがわかりました。また、私立小学校の中にはわずかながらスワヒリ語を教授用言語にしている学校も存在し、それらの学校の中には優秀な成績を収めている学校もありますが、全体の成績で見た場合、上位の学校は全て英語を教授用言語とする私立小学校という状況も確認されました。そのため、社会的に高位の言語である英語へのアクセスを求める気持からも、「せっかくお金を払うなら、英語を教授用言語とする学校へ」となってしまっている状況です。

タンザニアの小学校教育レベルでは、英語で教えるのか、スワヒリ語で教えるのかという言語の問題以前に、スワヒリ語で教えている公立小学校の教育がおおよそ壊滅的な状況であるという問題が存在しています。たとえば、私が調査を行った村の小学校では、スワヒリ語の授業中、そのクラスに教科書が一冊しか存在していませんでした。「教師が教科書に載っているスワヒリ語の題材を音読し、その文章に関する練習問題を板書し、生徒がそれをノートに写し、解く」という状況でした。これでは「読解力」は得られません。この学校の2015年の小学校修了試験の成績は、全国16096校の小学校のうち14124位でした。農村部で子どもたちがアクセスできる学校のほとんどが、このような状況にある公立小学校だけなのです。

農村部のM小学校の様子。子どもたちの中には、ノートやペンを持っていない子もいます。

一方で、都市部では一人に一つのイス、机、教科書が用意され、良い給料を支払われる教師が熱意を持って教える私立小学校がたくさんあり、お金さえあれば、そのような小学校にアクセスすることができます。このような格差状況が、英語による教育とスワヒリ語による教育の格差という形で人々に認識され、「英語=教育」という意識を強化している状況があることが、今回のダルエスサラームでの調査から改めて確認されました。

桐越 仁美(開発・生業班)ニジェール、ガーナ 海外出張期間:2017年3月6日~21日

「西アフリカのコーラナッツ交易を支える連携と信頼の商業ネットワーク」
桐越 仁美

(派遣先国:ニジェール、ガーナ/海外出張期間:2017年3月6日~21日)

西アフリカでは、輸入された海外製品が港で大型トレーラーに積み込まれ、次々に内陸部へと運ばれています。沿岸部から内陸部に輸送されていく海外製品のなかには日本や中国などから輸入された中古バイクや中古自転車、中古の家電製品なども多く含まれ、近年では内陸部におけるこれらの輸入品の需要が高まっています。海外製品の内陸部への輸送を支えているのが、西アフリカの歴史的商業ネットワークです。西アフリカでは、紀元前1000年から北アフリカとのあいだでトランス・サハラ交易が発展しました。トランス・サハラ交易やその後に発展した大西洋貿易は西アフリカ各地をむすびつけ、異なる生態ゾーンとのつながりを構築しました。

西アフリカの歴史的交易のなかでは、コーラナッツという商品が重要な交易品とされてきました。コーラナッツとはアオイ科コラノキ属コラノキ (Cola nitida) の種子です。コーラナッツはおもに西アフリカのサバンナ地帯やサヘル地帯といった内陸乾燥地域において、古くから嗜好品として消費されてきました。コーラナッツの特徴として、鮮度を維持したまま輸送される点、消費地は内陸乾燥地域であるのに対して生産地は南部の森林地帯に限定される点の2点があげられます。このような特徴から、鮮度を維持しつつも、ときには2,000km以上の道のりを輸送しなければならず、19世紀以前には輸送に多大な労力と財力を必要としました。交易を通じてコーラナッツの商品価値は高まり、内陸乾燥地域においては富と権力の象徴として儀礼的・社会的に高い価値が与えられました。コーラナッツは現在でも内陸乾燥地域で日常的に消費されており、森林地帯から内陸乾燥地域に向けて大量に輸送されています。私の研究は、現在のコーラナッツ交易がどのような商業ネットワークのもとに成立しているのかに着目しています。

今回の渡航では、コーラナッツの生産地であるガーナ南部と消費地であるニジェール南部の2ヵ所で調査を実施しました。ニジェールでは首都ニアメの市場グラン・マルシェと資材市場カタコの2エリアに位置するコーラナッツの配荷場を対象に調査をしました。消費地であるニジェールの情勢悪化によって、2013年以降、私の調査は生産地であるガーナに限られていたのですが、今回は初めて消費地を対象とした調査をおこないました。おもにコーラナッツの価格や配荷場のシステムについて調査を実施し、過去にガーナで調査したコーラナッツの輸送システムとの照合をおこないました。ガーナでは、輸送上の取引に関する調査とあわせて、コーラナッツ交易に関わりのある若者たちのこれまでのライフコースや今後の展望についての聞き取り調査も実施しました。調査対象の若者たちのほとんどは、ガーナ国内外の内陸乾燥地域からガーナ南部に移住した人びとであり、同じく内陸乾燥地域を出身とする商人のもとで修行を積んでいます。

これまでのガーナにおける調査からは、コーラナッツの消費地への輸送の行程において掛売りや委託販売といった手法が採用されており、商人間の連携や信頼が重要であることが明らかになっていました。今回は生産地であるガーナに限らず、消費地であるニジェールでも首都から地方への輸送の行程で掛売りが採用されていることが確認できました。また、ガーナにおける若者たちへの聞き取り調査からは、商人間の連携や信頼のうえに成りたつコーラナッツ交易に関わることへの誇りを垣間見ることができました。コーラナッツ交易は歴史ある商売であり、長い修行期間を必要としますが、多くの若者がコーラナッツ交易に関わることに喜びを感じており、修行を通じて次のステップを模索している状況にありました。また聞き取り調査のなかで、西アフリカの交易には大きく分けて2つのタイプがあり、コーラナッツや塩などの歴史的な交易と、海外製品などを扱う新しい交易に分けられることが明らかになりました。さらにこれら2つの交易のあいだでは異なる商慣行がみられます。しかし、この2つの交易が互いに影響しあわないわけではなく、若者たちはこの2つの交易を柔軟に行き来することで、みずからの人生の指針を得ようとしていました。今後は、これら2つの交易の違いについて調査・分析し、若者の人生設計や歴史的商業ネットワークの新しい交易への活用について考察していきたいと考えています。

ニアメのコーラナッツ配荷場の内部

ガーナのコーラナッツ商人たち

岩井 雪乃(環境・生態班)タンザニア 海外出張期間:2017年2月8日〜13日

「アフリカゾウを追い払う:実践と困難」
岩井 雪乃

(派遣先国:タンザニア/海外出張期間:2017年2月8日〜13日)

タンザニア北部地域では、2000年代に入ってからアフリカゾウが農作物をあらす害獣となっている。かつてはゾウは保護区内にいたが、村の中まで畑の作物を食べに入ってくるようになってしまい、時には人が殺される事件も起きている。村びとたちは、自分の生活と生命を守るためにゾウを追い払い、保護区に戻そうと努力するが、10トンもある巨大な生物に立ち向かうのは命がけである。そして、それが1頭のみならず多いときには200頭もの群れで押し寄せて来ることもある。このような状況に人びとはどう対処しているのだろうか。

家の前で平然と木を食べるゾウ

本調査では、筆者が1990年代から調査を続けているセレンゲティ国立公園の西側に隣接する村落で、村びとによるゾウ追い払いをつぶさに観察する機会を得たので報告したい。

2月半ばのその日は、前日に久しぶりに雨が降った日だった。午後4時ごろ、村びととともに、村と保護区の境界に設置しているワイヤーフェンスを見回っていると、ゾウの群れ(6頭)を発見した。ゾウは、まだワイヤーの外(保護区側)にいたが、しきりにワイヤーを嗅ぎ回っているので、今にもポールを倒して入ってきそうだった。

村の中に入っているゾウ

近所の若者たちに連絡がいき、すぐさま10名ほどが集まった。口笛、ブブゼラ、バロティ(銃声に似た音がでる爆竹機)、犬、弓矢など、それぞれに持っている道具を駆使してゾウを脅かし、ワイヤーから離れた保護区の方へ追いやった。解散した時には夜8時になっており、家に着いたのは10時ごろになっていた。

若者たちの追い払いチーム

ところが翌朝、ゾウはワイヤーの切れ目を見つけ出し、村の中に入っていた。朝8時から再び追い払いが始まった。15名が集まって出動。しかし、3時間追い払っても、ゾウは出ていってくれない。脅かされて逃げてワイヤーにぶつかると、また村の方に戻ってきてしまい、なかなかワイヤーの切れ目に行ってくれない。そのうちに、群れが分かれて2頭と4頭になってしまい、追い払う人数が足りなくなってしまった。近隣地区からも応援をよび、さらに人数を増やして右往左往すること10時間。夕方6時になって、ようやく切れ目から保護区へ出ていった。

帰路につく時、若者たちは満身創痍だった。ゾウとともに数十キロを走り回った結果、ねんざして杖をつくもの、木の根を踏み抜いてびっこを引くもの、爆竹機でやけどしたもの・・・。そして、全員が疲労困憊してお腹をすかせていた。

わたしはこの翌日に村を後にしたが、その日の晩にもまたゾウ群が来て、若者たちは一晩中追い払いをしたそうだ。彼らは、寝る間もなく生計のために労働をしている暇もない。これでは彼らの生活が成り立たず、追い払いを続けることもできなくなり、ゾウに対処できなくなってしまうことが懸念される。そうなった時、人びとは自らの生活をどうやって成り立たせるだろうか。ある村びとは、「畑の作物をゾウに食べられてしまうなら、狩猟をするしかないじゃないか」と怒りをあらわにしていた。

セレンゲティ地域の人びとにゾウを保護することを強いているのは、タンザニア政府であり、観光業者であり、ゾウを見たい観光客であり、自然保護を求める先進国のわれわれである。村びとが試みている「ゾウと共存するための追い払い」をどう支援できるのか。わたしはこれまでに、32kmのワイヤーフェンスを設置するプロジェクトをおこなってきた。現在、次なる展開を模索しているところである。

モハメド・オマル・アブディン(対立・共生班)スーダン 海外出張期間:2017年1月23日~2月23日

「スーダンにおけるFGM/C正当化の論理とその変容」
モハメド・オマル・アブディン

(派遣先国:スーダン/海外出張期間:2017年1月23日~2月23日)

スーダンにおけるFGM/Cの擁護派と反対派間の対立の現状と、双方が自らの主張を正当化するためにどのような論理を用いているのかを解明することを目的として本調査を行った。とくに、FGM/Cの問題が、政治論争のトピックとして表れている現状に注目しながら、FGM/C正当化の論理とその変容を明らかにしていきたいと考えている。

現地調査は、スーダンのハルツームにおいて実施した。まず、厚生省、内閣管轄下の国立子供福祉協議会(National Council of Child Welfare)、国会(National Assembly)におもむき、関連資料を収集した。また、ハルツーム大学社会開発研究所、アハファード大学ジェンダー研究所の担当者と面会してインタビューをおこない、図書館では資料を収集した。そして、青年男性(20代から30代)グループへのインタビューを実施し、また、複数の男性を集めてディスカッションを行うことも試みた。

今回の調査により、スーダンにおいては、FGM/Cの正当化をめぐって従来の成女儀礼としてではなく宗教教義として、認識され始めていることが明らかになってきた。すなわち、擁護者は、グローバルな反対運動の影響が強くなるなか、「伝統儀礼」として正当化することが困難になっていることから、別の論理を新たにつくるという動きがみとめられた。これに対して反対派は、FGM/Cは宗教との関連が薄いことを主張するという、消極的な対応にとどまっている。また、行政は、撲滅運動に前向きであり、キャンペーンなどを実施している一方、立法面では、FGM/Cの禁止法案を否決するなど、立法と行政の間では不整合がみられ、FGM/Cをめぐる現状は複雑化している。

今回は主として、擁護派と反対派がみずからの主張を正当化する論理がいかなるものであるかを調査してきたが、今後は、双方の主張がどのように一般の人びとに浸透しているのかを調査していく。また、男性グループのディスカッションを組織して感じたのは、公の場におけるこの問題への人々の発言と本音との乖離である。この事実は、FGM/Cについて語ることが、依然としてタブーであることを裏付けるものであるが、調査の方法を慎重に選びながら進めなければ、現状を正しく理解することは困難である。今後も、文献調査とインタビューを並行しながら調査をおこなっていくが、その際に、宗教家や医師など、FGM/Cに関連して人々によく知られている具体的な個人の活動とその人に対する人々の意見に注目しながら調査をすすめていきたい。

塩田 勝彦(言語・文学班) ナイジェリア 海外出張期間:2017年2月24日~3月13日

「『ジュジュ』を読む:言語学・文学資料としてのヨルバ語ポピュラー音楽の分析」
塩田 勝彦

(派遣先国:ナイジェリア/海外出張期間:2017年2月24日~3月13日)

20世紀初頭、蓄音機の普及とともに西アフリカでも商業録音が始まり、数多くの現地音楽が録音され、レコードとして発売されるようになりました。マスメディアと結びつくことによって、現地音楽はその形を整え、西アフリカにおけるポピュラー音楽が成立したのです。
この時期はまた、ギニア湾岸の港湾都市を中心に都市化が進み、経済の発展とともに外国文化も流入し、社会や価値観が急速に変動していく時代でもありました。
西アフリカのポピュラー音楽は、変わりゆく社会とともに成長し、社会を映す鏡として、またある時は社会に影響を与える言論の道具として機能してきました。
西アフリカには現地語で出版された書籍や新聞、雑誌などもありますが、庶民にとってレコードや街角で流れる流行り歌は、活字よりずっと身近なものだったと考えるべきでしょう。
アフリカ出身者が多いカリブ海のトリニダード・トバゴでは、現地のポピュラー音楽であるカリプソが、しばしば「プアマンズ・ニューズペーパー」と呼ばれていました。ポピュラー音楽には時事を伝える瓦版としての機能もあったのです。
アフリカにおけるポピュラー音楽は1970年ごろから熱心に研究されるようになり、いくつかの音楽ジャンルに関しては、その民族音楽学的、および社会史的側面がかなり明らかにされてきています。

ナイジェリアのラゴスは、そのようなポピュラー音楽が早くから栄えた都市のひとつです。ラゴスには古くから多くの民族、文化が流入していますが、基本的にはヨルバ人の町です。
ヨルバ民族は、お互いに系統を同じくしながら異なる歴史を重ねた都市国家群から構成されており、19世紀は相争う戦国の時代でした。言語もそれぞれが異なる方言を持ち、標準語が整備されたのも19世紀半ばになってからです。その後イギリスの支配下に置かれて社会は安定し、同じ民族としてのアイデンティティを強めていきます。
20世紀には「ヨルバ」としての民族意識も高まり、ナイジェリアの独立へ向けて大きな役割を果たすことになるのですが、その過程を様々に記録し、民衆の声を代弁し、その心情を描写してきたのがヨルバのポピュラー音楽でした。
ヨルバのポピュラー音楽は、民衆の歴史観をヨルバ語で記録し、詩的言語の豊富なバリエーションを提示し、民衆レベルでの言語推移の記録を留めた、貴重かつ豊かな資料であると言えるでしょう。

今回の調査では、音源を入手できたヨルバのポピュラー音楽のうち、録音最初期の1920年代から独立後10年ほど、すなわち1960年代末までのものを選び、歌詞の聞き取りと翻訳をナイジェリア人研究者との共同で行いました。
作業はエキティ州、アド・エキティ市のエキティ州立大学(EKSU)文学部、言語学・ナイジェリア言語学科のM.A.アビオドゥン教授、O.アラム教授、および大学院生数名の協力で順調に進み、約40曲のデータが収集できました。

本格的な資料の分析はこれからですが、整理の過程で以下のような点に気付きました。

1)ヨルバ語には「深いヨルバ語(ìjinlè̩e̩ Yorùbá)」と呼ばれる、通常の口語とは異なる語彙と文法からなる芸術的変種が存在し、もっぱら詩の創作に用いられていますが、この「深いヨルバ語」が最初期の録音からすでにポピュラー音楽の中に取り入れられていたようです。
初期のヨルバ語ポピュラー音楽は、その演奏者が必ずしもヨルバ人というわけではなく、片言のヨルバ語を許容する風潮も認められていたのですが、歌詞そのものには早くから高度な芸術表現が用いられており、詩作の伝統との関連が注目されます。

2)前述のように、ヨルバ語は19世紀から標準化が進められており、商業録音が開始された20世紀初頭には、少なくとも都市部のリンガフランカは標準ヨルバ語になっていたと考えられています。録音音源は全時代を通してほぼ標準語で歌われていますが、ところどころに方言が組み込まれています。興味深いのは、初期のものより、標準語がより隅々まで普及した独立後の60年代のものに方言要素が多くみられるということです。圧迫された方言が地方出身者の郷愁や連帯感の象徴になりつつある、その過程の表出と考えられるかもしれません。

3)ヨルバ文化は、北部から流入してきたサヘル文化とのつながりが深いイスラム文化圏と、南部の港から流入してきた西洋文化とのつながりが深いキリスト教文化圏の二つに大別でき、その両者がさまざまな度合いで伝統宗教・文化の影響を受けています。ポピュラー音楽もイスラム文化圏に属するもの、キリスト教文化圏に属するものに分けることができますが、イスラム文化圏の音楽が楽器編成、歌詞の表現などにおいてヨルバの伝統的な(少なくとも、その時代にはそう思われていた)様式にこだわる一方、キリスト教文化圏の音楽は、比較的新しい外来要素(ラテン音楽のリズムや西洋楽器など)を抵抗なく取り入れ、歌詞にも個人的な感情表現が見られるようです。保守的なイスラム文化圏と進取の気性に富むキリスト教文化圏というヨルバランドにおけるステレオタイプは、ポピュラー音楽においても(少なくとも、表面的には)そのまま支持されているように見えます。

今後はこの資料を整理し、言語・文学および歴史的観点から注釈をつけ、保管・公開へ向けた作業を続けていく予定です。

イバダンのCDショップ。この店はヨルバ音楽だけを扱っている。

調査に協力していただいたA・アビオドゥン教授。エキティ州立大学にて。

味志 優(国家・市民班)タンザニア 海外出張期間:2017年2月27日~3月17日

「タンザニアにおける小規模の汚職をめぐる認識のあり方:論と実生活との狭間で」
味志 優

(派遣先国:タンザニア/海外出張期間:2017年2月27日~3月17日)

今回、私はタンザニアのダルエスサラームと北西部のバリアディという地で、汚職や国家の法に対する人々の認識のあり方に関して予備調査を行いました。

周知の通り、特に植民地支配からの独立以来、汚職はアフリカ諸国にとって大変関わりの深いテーマであり続けてきました。近年「グッド・ガバナンス」が広く推進されていることからも分かるように、とりわけ経済開発との関わりにおいて、依然として汚職は非常に問題視されています。

この汚職というテーマに対して、私は調査地の人々の認識のあり方という側面からアプローチすることを試みています。つまり、汚職または法を犯すという行為に対して、我々ないし先進国の人々は悪いイメージ、あるいは日常生活から離れたイメージを瞬間的に抱きますが、調査地の人々はそれとは異なる形で汚職を認識しているのではないか、という問いを探求しています。仮にこうした異なる形で汚職が認識されているならば、開発の議論において「汚職の状況の改善」をただただ要求し、あるいはそのための制度を構築したとしても、人々の実践においては本来の意図通りに結果が生じない可能性があります。また、異なる形で汚職が認識される可能性があるにもかかわらず、特定の認識のあり方を前提にしてアフリカを「腐敗した」国家として断罪することの危うさも提起されます。こうした意味でも、汚職というテーマを認識のあり方という面から考察することは重要であると考えています。

このような背景を踏まえて、今回の予備調査では、ダルエスサラームおよびバリアディにおいて簡単な聞き取り調査を行いました。ただし、汚職といってもその種類は多岐にわたります。最も大きく分類すれば、主に大物の政治家が関与するような、多額の資金が関わる大規模な汚職(“grand corruption” としばしば呼ばれます)と、より下位の行政官や警察官が関わるような小規模な汚職(“petty corruption”)があります。今回は、特に人々の日常生活において身近な、後者の小規模な汚職に関する人々の認識のあり方を探りました。

端的に言えば今回の調査において痛感したことは、非難される対象としての「汚職」という概念が共有されている一方で、人々の生活空間における具体的な汚職行為に関しては多様な認識がなされている、ということでした。さらに言えば、人々は大規模な汚職に関しては非常に嫌悪感を抱き非難する傾向にあるのですが、小規模な汚職に関しては、さらに細分化される事例の状況に応じて、あるいは各個人の経験に応じて、その認識のあり方や抱く感情に差異があります。他方でそれと同時に、近年のグッド・ガバナンス論の興隆を背景に、概念として汚職が非難されるべき対象であるという理解もあり、こうした概念としての論と実生活の中の具体的な行為の認識との狭間に人々がいるように思えました。

実際の汚職行為に対する多様な認識のあり方について、いくつか例を挙げます。今回聞き取りを行った人々によれば、彼らが日常生活において最も頻繁に遭遇する汚職の場面は、自動車を取り締まる警察官が運転手に賄賂を要求する、というものです。そこで、警察官による賄賂の要求、という要素だけを固定しながら架空の事例をいくつか用意して、それに対する人々の意見を聞き取りました。まずは、仮に自分が車を運転していて、シートベルトを締めていなかったことが警察官に見つかったという事例です。罰金として30,000シリング(日本円で約1500円)を国家に支払う代わりに、その警察官に対して個人的に10,000シリング払えば見逃してもらえる、と警察官から提案された場合にどうするか、と聞いた際には、ほとんど全ての人がその賄賂を支払う、と回答しました。また、この事例に関しては、賄賂を支払う動機やそれに対する感情はおおよそ内容が類似していました。それは「皆がやっているのだから自分だけやらない理由はない」というものです。つまり、賄賂を支払うことが、一般的にメディア等で非難される「汚職」に与する行為であると理解していながらも、自分にとってペイするものであり、かつ周囲でも頻繁に行われているものであるから、多少の罪悪感は感じながらも半ば当然のものとして支払う、というものです。

他方で、この事例を提示した際には、回答者が多少の怒りを示しながら、自身から補足を始めることも少なくありませんでした。それは「警察官側は何かしら理由を探してでも賄賂を要求してくる」というものです。つまり、シートベルトの締め忘れや交通違反といった外部から判別できる違反がなくとも、警察官が車を脇に停めさせることは少なくなく、その場合警察官は免許証や車の保険の有効期限をまず確認し、そこにも問題がなければ、消化器や三角表示板の搭載を確認してまで違反を探し出し賄賂を要求しようとする、と不満を口にする回答者が多くいました。あるいは回答者によっては、警察官は最後には車を揺らして車からガソリンが滴るかどうか確認する、とあきれて笑いながら話した者もいました。また、このようにして警察官によって「あぶり出された」違反に対して要求される賄賂に対しては、人々はよりネガティブな感情を抱いていました。さらにその中でも、免許証の不携帯や車の保険の期限切れに対して要求される賄賂に関しては、多少は人々が納得していることが感じられましたが、特に消化器や三角表示板の搭載に対して要求される賄賂に対しては、明らかにネガティブな感情が読み取れました。

それに加えて、賄賂によって自らが得をするような事例に関しても意見を聞きました。自分と共にダルエスサラームに上京した友人が警察官に就職したと仮定して、その友人が、賄賂で得た金で自分にビールを奢ると提案した時にどうするか、という事例です。これに関しては回答者によって大きく差異が見られました。すなわち、迷わず奢ってもらう、あるいはさらに多くの賄賂を得て、より多くのビールを奢るよう助言する、と答える回答者もいれば、賄賂を得ることをやめるよう勧めるとの回答もありました。前者の回答に関しては、賄賂を獲得できる立場にあるのにそれを行わない方が愚かである(“It’s stupid not to do it”)という理由を説明する回答者もいました。それに対して後者の回答に関して理由を聞いたところ、「賄賂の要求を続けた結果、偶然自分に近しい人物から賄賂を受け取った際に人間関係が崩壊するかもしれない」や「果てしなく続く欲望に打ち克たなければならない」といった回答があり、法を守ることの重要性自体は指摘されなかったのが印象的でした。

こうした回答を踏まえた上で、人々の認識のあり方に対していかなる解釈を行うべきか、という点は今後さらなる課題として設定していますが、今回の調査を通じて以下の点ははっきりと実感することができました。つまり、一口に「汚職」と分類される行為に対しても、少なくとも私が今回調査を行なった人々の間では、文脈に応じて多様な認識がなされています。時には、ある種の非公式の制度とも言えるほど当然のように与するような行為であり、時には「被害」を受けたと強い憤りを感じるような行為であり、あるいは友人を通じて自らに恩恵をもたらす行為でもあり、それに遭遇することで自らの倫理や認識のあり方を確かめる機会を与えるものでもあります。しかし同時に、そうした行為は一般的に非難されている「汚職」に分類されるものであると、皆が理解していることにも着目しなければなりません。私が汚職の話題を出せば、多くの回答者は少し顔をしかめながら汚職が国にはびこっていることを指摘していました(“Corruption is everywhere”)。つまり人々は、一方で個々の行為に対しては、その文脈に応じて多様な認識や感情を抱いていますが、同時に他方で、グローバルに展開されている、ある種概念的に「汚職」を非難するような言説に触れ、それを内面化せざるをえない状況にあります。また、現政権は汚職に対してかなり厳格な態度を取っており、警察官も以前ほど賄賂を要求できなくなっている、との声も多数耳にしました。賄賂を要求している姿を撮影した動画がインターネット上で共有され、最終的にはその警察官が公的な処分を受けた、という事例も出てきています。

今後は、上記のような多様な認識のあり方に対する解釈の仕方を模索するとともに、このようなある種の「狭間」とも解釈できる状況下で、調査地の人々の認識のあり方がどのように変化するのか(しないのか)という点にも焦点を当てて調査を進めていく予定です。汚職を非難する言説も、概念として汚職は悪であるという人々の認識も、もはや不可逆な流れの上にあると考えています。そうした中で、実生活の中に具体的に位置付けられるような、汚職行為や法の違反・遵守に対する人々の認識のあり方がいかなる動態性を持っているのかを観察していく予定です。

調査地近くのミッション系の私立中学校(休み時間)。厳格な教育が行われているが、その卒業生であっても、個別の汚職行為に対する解釈は他のインフォーマントと大差なかった。

ダルエスサラームのバー。出産を祝う催しが開かれていた。共に飲食・飲酒をすることで
初めて汚職行為に関して語ってくれたインフォーマントもいた。

西﨑 伸子(環境・生態班)南アフリカ、ケープタウン 海外出張期間:2017年3月4日~3月8日

「ワークショップ『アフリカにおける参加型観光』への参加報告」
西﨑 伸子

(派遣先国:南アフリカ、ケープタウン/海外出張期間:2017年3月4日~3月8日)

南アフリカ・ケープタウンで開催されたワークショップ「アフリカにおける参加型観光」に、本プロジェクトとかかわりの深い日本人研究者とともに参加し、研究発表をおこないました。最初に主催者からワークショップの趣旨が説明されました。会場である!khuwa tuuで働くスタッフが参加していたため、アカデミックな事例報告だけでなく、アフリカ観光の特徴や課題を参加者全員が共有できるように、議論のポイントが3点示されました。一つ目は観光産業に地元住民がどのぐらい参加するべきなのか、二つ目は、観光から受け取る地域住民の便益とは何か、三つ目は観光がもたらす負の影響は何か、です。

わたしは、「エチオピアの民族観光」について報告しました。とくに近年、外国人観光客数が著しく増えているエチオピア西南部の民族文化観光の実態を報告し、ホスト側と観光客の「出会い」と「まなざし」によって、若者層を中心に観光業へ参入するアクターが増えていること、アクターの多様化によって地域の観光資源が豊富になっていること、それによって地域住民の参加や経済的収入を得る機会がつくられていることを説明しました。観光業が新しい産業として地域にはいってきていると同時に、開発にともなう土地収奪によって、産業として不安定な観光業に農牧民が依存せざるをえない状況となっていることを強調しました。

ワークショップの様子(松浦直樹氏撮影)

タンザニア、ケニア、ボツワナ、ガボンの自然観光と民族文化観光の事例報告に加えて、!khuwa tuuの説明をスタッフからしていただきました。会場となった施設は、NGOが所有・運営しており、ブッシュマン観光を観光客に提供したり、そのためにスタッフにトレーニングをおこなったりしています。ミーテンィグルームだけでなく、とても清潔でおしゃれな宿泊施設やレストランを併設しています。最後の総合討論では、コメンテーターを含めて、コミュニティの観光のかかわりなどについて活発な議論がおこなわれました。

ブッシュマン観光のトレーニングについて