【2011年度派遣報告】大野哲也「葛藤する二つの正義―ケニア社会に変化をもたらす生活と環境の相克から―」

(派遣先国:ケニア/派遣期間:2012年2月~3月)
「葛藤する二つの正義 ―ケニア社会に変化をもたらす生活と環境の相克から―」
大野 哲也(京都大学GCOE研究員)
キーワード:アスリート, 留学, 生活の論理, 環境, 観光

研究の目的

2012年2月21日から3月14日まで、主にニャフルルとカカメガにおいて調査を行ってきた。本調査の目的は2つあった。

ひとつは、1980年代からはじまったケニアの陸上選手の日本への送出がケニア社会と日本社会にどのようなインパクトを与え、どのような社会変化をもたらしているのかを調査すること。

もうひとつは、現在、貴重な熱帯雨林として保護されているカカメガの森の観光資源化と、森林保護のために共有地としての森林利用を禁止された周囲のコミュニティの対立を研究すること、であった。

派遣から得られた知見

1) ケニアの陸上選手の日本への送出について
今回の調査では、ケニア人選手の日本への送出における、中心人物である小林俊一氏に話を聞くことができ、彼から陸上コーチ、ロバート・キオニ氏を紹介してもらい、キオニが主宰するスポーツクラブの練習の見学、聞き取りなどを行うことができた。以下のレポートは、小林、キオニ両氏からの聞き取りを基にしている。

ケニアの陸上選手の日本への送出は1983年、SB食品に入社したダクラス・ワキウリ(ソウルオリンピック銀メダル)を嚆矢とする。その後、エリック・ワイナイナ(アトランタ・銀メダル、シドニー・銀メダル)、サムエル・ワンジル(北京・金メダル)と、日本経由のケニア人メダリストを3人輩出している。昨今、高校駅伝や大学駅伝などでのケニア人選手の活躍はめざましく、現在では100名以上の高校・大学・社会人選手が存在しているといわれている。

このような流れをつくったのが、1977年にケニアに移住してきた小林俊一(1942年生まれ)だった。フォトジャーナリストを目指しケニアに渡った小林は、自身が陸上をやっていたということもあり、ケニアの陸上大会に頻繁に出入りしていた。そこで知り合ったのがニャフルルで陸上クラブを主宰し選手の育成に励んでいたロバート・キオニ(1950年生まれ)だった。

キオニは、1977年にニャフルルで「アフリカ・スポーツ」という陸上競技のクラブを作り選手の育成を行っていた。キオニが育てた選手を日本へ送るというアイデアを思いついた小林と優秀な選手を世に送り出したいと願っていたキオニが手を結ぶことによって、日本への選手の送出という流れが創出された。

ちなみに選手を送り出した所属先からは、小林に年間百数十万円の「顧問料」が支払われている。

私のケニア滞在中に、5名(高校2名、大学3名)、3名(社会人1名、大学2名)を送り出す場に立ち会うことができた。またキオニの本拠地ニャフルルで彼のクラブの練習や選手へのインタビューも行うことができた。

帽子を被っているのがコーチのキオニ。後列右端は筆者。残りの5名が日本の高校と大学に留学する。2012年2月25日、ナイロビにて撮影。 写真1 日本に向かう直前の選手たち

彼の門下生は現在約50名おり、年齢は8歳から30代までさまざま。1977年から数えると総勢1000名以上の選手をコーチングしてきたという。キオニに作ってもらった日本へ送り出した選手のリストは、彼が記憶しているだけでも53名に及ぶ。

写真2 ニャフルルでの練習風景。2月28日、筆者撮影。

このような陸上選手の送出がビジネス化するようになった影響か、いまでは、小林ルートだけではなく、他の個人プロモーターも存在する。丸川氏という紅茶の輸出を本業にしている方などはその例だ。しかし、今回の調査では、直接丸山氏へアプローチするまでの時間的余裕はなかった。本調査では、ケニアの調査と同時並行して、日本での受け入れ側の調査も行う予定である。

ニャフルルから優秀な選手が多く輩出されているという現実を踏まえ、いまでは、日本企業がニャフルルでキャンプを張るという「逆現象」ともいうべき人の移動が起こっている。私のニャフルル滞在時だけでもSB食品、コニカミノルタ、九電工から選手が合宿にきており、それをサポートしているのは、かつて日本の大学へ留学して駅伝などで活躍し現在はヤクルトに在籍しているダニエル・ジェンガだった。

2) カカメガの森の観光資源化について
現在、カカメガの森を管理するのはKWS(Kenya Wildlife Service)とKFS(Kenya Forest Service)であり、KFSが全体の約80%を担当している。

KFSが担当する地域では、観光ガイドを務めるGabriel Odhiambo(1979年生まれ。男性)に森林を案内してもらい、その後、彼から聞き取りをすることができた。カカメガの森で生まれ、森の中にかつてあった学校に通ったという男性で、幼少の頃は、彼のコミュニティだけで300から400人の住民がいたという。その後、世界的な環境保護の流れが強まると軌を一にして、政府から「森を出て行くように」という要請が強まった。最後の住民は2000年に森を後にした。

彼のコミュニティがかつてあった場所を教えてもらったが、そこには大樹はなく草原のようになっていて、住居跡らしきものは残っていなかった。聞けば、政府が建築物はすべて撤去したのだという。

彼は今、森のすぐ横にあるコミュニティで生活しながらガイドをしている。

彼は今、森のすぐ横にあるコミュニティで生活しながらガイドをしている。 写真3 カカメガの森と自身の生活史について語ってくれたオディアンボ氏。 2012年3月2日カカメガの森にて。筆者撮影。

KWSが担当する地域では、まず、協力隊員としてカカメガに派遣されている加藤さんにカカメガの森を案内してもらい、歴史、生態、観光などについて説明をしてもらった。 その後、カカメガの外縁に位置するIVAKALEという村をまわって、3軒の家庭で聞き取り調査を行った。

一人は、France Natiliという、自称101歳の男性の家で、現在、孫なども含め7名で生活していた。彼が語るところによれば、彼が15歳くらいの時には、この周囲には15名ほどしか住んでいなかったという。彼はかつて7エーカーの土地を所有していたが、政府から不法占有を指摘され(年代は不明)、4エーカーを没収されたという。

2軒目は、Bereneta Mukeya(1950年生まれ。女性)の家族で、彼女の義父が1924年にカカメガに移住してきたという。やはり当初は、7エーカーの土地を所有していたが、1997年に、突然、政府から不法占拠を指摘され、3エーカーを没収されたという。かつて所有していた土地と、現在、所有を認められている土地の境界には、コンクリートで目印の基礎が設置されており、KWSが管轄する森からは薪やキノコ類、あるいは薬となる樹皮などの採集は厳禁だという。

最後は、Charles Ikanzo(1950年生まれ。男性)で、彼は200エーカーの土地を所有していた。しかし、やはり1999年に政府によって不法占拠と不法農業を指摘され、11月に2エーカーだけを残し、ほとんどすべての土地を没収された。1999年11月16日朝6時頃に30名以上の役人、警官がいきなりやってきて、武器をちらつかせながら18軒ほどあった家屋に一斉に火を放ち、強制的に立ち退きをさせられたという。この件で、彼は裁判を起こしており(敗訴)、それらの書類はほぼすべて保管されていた。

以上が、おおまかではあるが、今回の調査の概要の一部である。この他にも、ニャフルルと並ぶ陸上のメッカItenや、観光地ナクル、ナイバシャ、レイク・ボゴリアなどを視察して、非常に浅くではあるが、私が調査した地域と比較することができた。

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