【2012年度派遣報告】高橋基樹「ケニアの農村における紛争の背景と影響に関する研究」

(派遣先国:ケニア/派遣期間:2012年9月)
「ケニアの農村における紛争の背景と影響に関する研究」
高橋基樹(神戸大学大学院国際協力研究科・教授)
キーワード:人口増加, 土地の希少化, 少子化, 草の根の平和構築, 公共財

研究目的

1990年代初頭から拡大し、さらに2007年から翌年にかけて国際的な注目を集めた、ケニアの農村、特にリフトバレー州の民族紛争の根底には、人口増加と土地の希少化があると考えられている。実際に一連の紛争に関わっては、同州の「先住民」を自認するカレンジン人の一部が、入植者であるキクユ人が退去させられた後の土地を占有し、居住するという事例が確認されている。もちろん、人口増加と土地の希少化が直ちに紛争に結び付いたと考えるのは短絡的であり、そこには、長い歴史を背景とした民族間の不平等と不信、政治権力と資源配分、人々を動員しようとする政治家たちの選択と行動などの多数の媒介要因が関わっていると考えるべきであろう。そして、人口増加と土地の希少化に直面した人々が、すぐさま他民族を攻撃して土地を拡大しようとするわけではない。むしろ、日常的には、暴力に訴えずに、人口増加や土地の希少化に対処する様々な方法が、個々の人々、世帯、地域社会によって取られていると考える方が自然であろう。また、そうした方法を理解することを通じて、人々が、暴力によって損なわれたお互いの関係を修復し、協力する途を見出すことができるかもしれない。こうした想定に基づき、今回の調査では、紛争の中心地であるリフトバレー州の農村、および過去キクユ人入植者を送り出した土地であるセントラル州の農村の2か所において、人々が人口増加と土地の希少化にどのように対処しているかについて予備的なデータを集めることを目的とした。さらに紛争地において、その後、何らかの平和構築のための努力が行われているのか、行われているとすれば、それはどのようなものか、付随的に調査することも目的とした。なお、この科研費にて行った2011年度の調査では、2008年に激しい紛争が生じた農村と都市における、人々の間の財産権を巡る異なる民族間の認識の相違に関して聞き取り調査を行ったが、今回は、そのことは念頭に置きながらも、同じ民族の中で人々がどのように財産権の排他性を柔軟に調整しているかについて、聞き取りと実地調査を行った。

調査から得られた知見

A村の畑地の風景:手前がアロールート(クズウコン)が栽培されている谷地、その向こうの斜面は、多種・多数の樹木作物が植えられている段々畑となっている

今回予備的調査を行った場所は、ケニアのセントラル州キアンブ県A村及びリフトバレー州ウアシンギシュ県B村である。
セントラル州及びキアンブ県では、ほとんどの人々がキクユ民族に属している。キクユは、独立以来4代のうち3人の大統領を輩出したが、初代大統領ジョモ・ケニヤッタはキアンブ県のガトゥンドゥ地区を選挙区としており、その息子であるウフル・ケニヤッタ第4代大統領(現職)も同様である。ジョモ・ケニヤッタ時代には、キアンブ県ガトゥンドゥの出身者が政権の中枢を占めたとされる。A村はこのガトゥンドゥ地区の一角にある。

独立以前からキアンブ県を始めセントラル州では、人口が急速に増加したことに加えて、ヨーロッパ人がアフリカ人(キクユ人)を排除して土地を占有したために、深刻な土地不足が生じた。こうした人為的な土地不足は、アフリカ人の中の階層分化と相まって社会的軋轢を生み、マウマウ闘争の原因になった。ジョモ・ケニヤッタ政権の中枢にとって、こうした土地不足への対処は不可避の課題であり、彼らは多数のキクユ人の土地なし層を政策的にまた私的に支援し、リフトバレー州ウアシンギシュ県をはじめ、セントラル州外に入植させた。こうした入植による人口移動は、1980年代まで続いた。リフトバレー州のウアシンギシュ県周辺はじめ中央部には元々カレンジン語系諸民族が居住していたが、彼らも、保有・利用していた土地からヨーロッパ人に排除された歴史を持っている。キクユ人等の民族が入植した地は、多くの場合、そうした経緯でヨーロッパ人が占有していた土地であり、そのために、カレンジン側には、キクユ人の入植と土地の取得は不当なものであるとの不満がわだかまることになった。

リフトバレー州ウアシンギシュ県にはキクユ人ばかりでなく多様な民族が入植した。B村も元々ヨーロッパ人によって占有されていた土地であり、そこにキクユ人が多数入植して、セントラル州のある場所にちなんで村名が付けられた。その他にカレンジン人、キシイ人などがともに住んでいるのが、この村の特徴である。またB村では、2008年の紛争の際に多くのキクユ人やキシイ人が襲撃の犠牲になったが、そのことは上に述べた歴史的背景と切り離せない関係にある。なお、B村には、1990年代以降「研究目的」で触れたように紛争に関連して退去させられたキクユ人の土地に入居して、占有し続けているカレンジン人がいるとされる。ある第三者は、その人物を特定してわれわれに教えてくれた。

キアンブ県、ウアシンギシュ県ともにケニアでは比較的高度が高く、降雨も多く、土地は一般に肥沃で、人の居住と農耕に適した土地である。決定的な違いは、インフラストラクチャーの整備の程度と商品作物の浸透度であろう。特にA村には舗装道路こそ見当たらないものの、浅い峡谷と尾根が複雑に入り組むなか、尾根道として自動車の通行可能な全天候道路網が張り巡らされている。我々が見たほとんどの畑地は2ha以下の小規模なものだが、トウモロコシ、プランタンバナナ、豆など食用作物とともに、牛・山羊・鶏などの家畜、コーヒー、マカダミア・ナッツ、アボカド、グアバなどの多年生(樹木)商品作物、ジャガイモ、カボチャ、アロールート(クズウコン)などの野菜を生産しており、道路の良さに対応して、商業志向の強い農業を展開していることが窺えた。他方、B村は場所によるが、雨が降るとぬかるんで車両が通行不能になる場所があり、A村との公共投資の違いは歴然と感じられた。これは、キアンブ県のキクユ人とウアシンギシュ県周辺に住むカレンジン人との間の政治力の違い(あるいは単一民族のA村と複数民族のB村の集合行為の強さの違い)が積もり積もった結果とも考えられる。B村では、トウモロコシ、プランタンバナナ、豆、キャベツなどが主なもので、多年生(樹木)商品作物や野菜の生産は比較的少なかった。

キクユ人の間では、土地の均分相続が見られ、A村のある拡大家族(3世代家族)M家の例では、所有と利用をめぐるいくつかの特筆すべき対応が見られた。一族の長Jは高齢ながら健在であるが、彼のきょうだいの間で過去に土地の分割が行われ、それぞれの土地の境界には物理的に垣根が設けられていた。M家の土地はJの名義のまま登記されているが、既に生前に畑地を男子及び独身の女性1人のきょうだい7人で均等に区画割していた。しかし、この区画割にそって物理的な垣根は設けられておらず、また登記もされていない。この例では、0.5haの狭い畑地を7つに均等に分けており、ひとつひとつの世帯の生計を支えるにははるかに足りない。そのためと思われるが、土地に権利を持つ7人のきょうだいのうち、5人は実質的に離村しており、残った者に耕作と利用を委ねていた。ここでは、均分相続の伝統にしたがった土地の細分化の形式は残しつつも、経済的に意義が低下するため、実質的には現実に合わせて利用の範囲を調整するという対応が見られる。

また、A村、B村の双方で、大人(親)の世代と子どもの世代とを比較すると、後者の方が決まってきょうだいの数が少なくなっていた。データが確実に得られた例を見ると、親の世代のきょうだいの数は平均で7.4人なのに対し、子どもの世代の平均は2.2人となっている。こうした少子化の背景には様々な要因があると考えられるが、土地の細分化への圧力の軽減、あるいは一人あたりの土地が狭小化するのに対応して、各々の子どもに教育を通じて人的資本を蓄積させなければならないという要請が高まっていることの反映だという推論は十分に可能であろう。

人口センサスによれば、A村の属するガトゥンドゥ地区は、1969年から89年の間に人口が1.8倍に拡大したものの、それ以後、2009年までの20年間には1.1倍にしかなっていない。A村では同じ20年間に人口の増減がほとんどない。B村の属するウアシンギシュ県は、1969年から89年の間に人口が2.3倍に、それ以後、2009年までの間には2倍になっている(B村のデータはない)。A村では人口圧力への対応が早く、離村(都市への移住および他の農村への入植)が起こり、さらに最近では少子化が重なって、人口の横這いにつながっているものと思われる。他方、ウアシンギシュ県での89年までの急激な人口増加は、入植者の流入も反映したものであろう。入植が停止し、キクユ人らの退去や少子化が始まったあとも人口が相当な勢いで増加しているのは、A村に比べて、離村が相対的に進んでいないことを示唆しているように思われる。A村は首都ナイロビをはじめ、セントラル州内に雇用機会を見つけられる都市があり、離村が容易になっているが、B村近傍の雇用機会ははるかに限られていることが、農村に留まる人口が多い要因の一つと推測される。

B村はすでに述べたように、激しい紛争があったところであるが、農家の生計が相対的に向上していないことや、離村が進まず農村内の潜在的失業が拡大しており、土地の希少化に十分対応できていないことが、過去の土地の収奪の記憶と他民族の土地取得についての不公正感、またカレンジン系の人々の中でのパトロン-クライアント関係の強固さと相まって、紛争への政治的動員を受けやすい状況を作り出したことが推測できる。とすれば、生計向上や、潜在的失業の解決などが、紛争を収拾して共生を実現するための方策に含められてよいように思われる。

B村周辺で民間人の女性による平和構築活動が多面的に行われていることは強調すべきだろう。キクユ人、カレンジン人、キシイ人など異なる民族が参加して、自力で道路を整備し、親睦のためのスポーツ大会を開き、また紛争に発展しそうな事例については、予防的に調停と対話を試みるといった活動が草の根で展開している。また、道路の整備は商品作物生産の機会を拡大し、生計向上に役立つことが期待される。

調査を通じて知り得た他のこととして、以下のことを挙げておきたい。A村では、障害者の多くが深刻な排除を受けることなく暮らしていると同時に、彼らどうしの相互扶助のネットワークが形成されている。ケニアが目指す社会的融合を考えるうえで重要なことであろう。また、B村周辺では、襲撃者だったとおぼしきカレンジン人男性の中に、心を病む者や自殺をする者が多いという指摘を、平和構築活動家を含む複数の人々から聞いた。2008年の紛争には青少年も巻き込まれたようで、10代の前半で自ら凶器をもって参加したという少年から直接話を聞くこともあった。

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