[生業・環境ユニット第4回研究会]加藤太「氾濫原をめぐる農民と牧民の対立の回避と協調関係の発展:タンザニア・キロンベロ谷の事例」(2012年02月18日開催)

日 時:2012年2月18日(土)11:00-14:00
場 所:京都大学稲盛記念館3階 小会議室1

プログラム

「氾濫原をめぐる農民と牧民の対立の回避と協調関係の発展:
タンザニア・キロンベロ谷の事例」
加藤太(信州大学 農学部)

報告

タンザニア中南部のキロンベロ谷に居住する農民と牧民を対象に、両者の生業とそれをとりまく社会・経済的な背景を関連づけながら、異なる生業や価値観をもつ民族集団の関係が対立から協調へと変化したことについて発表した。

キロンベロ谷では、1970年代より稲作が開始され、構造調整政策期を経て、現在では大稲作地帯へと発展している。農民ポゴロ(80%)、半農半牧民スクマ(20%)という人口構成比ではあるが、ポゴロには集住化政策によって多様な民族集団がふくまれている。ポゴロの主要な生業は水田稲作であり、トラクターによる耕起と種子の直蒔き、農薬・除草剤の利用を特徴とする水田耕作がおこなわれ、雨期の短期間に集中する洪水を利用する。一方、スクマは半農半牧であり、牧畜(とくにウシ)に高い社会的価値を置き、1980年代後半にキロンベロ谷に移住してきた。スクマは牛耕を中心に、苗床の作成と稲苗の移植、畦の作成によって、場所を選ばない水田の造成をおこなっている。ポゴロの水田面積は平均1.3ha、スクマのそれは平均2.6haであり、スクマはより少ない投入財と経費で、より多くのコメ売却益を得ている。この収入はウシの購入に充当されている。1,000頭ちかいウシを所有する男性は、スクマ社会ではサビンターレという敬称で呼ばれ、ソーラーパネルやテレビを所有する世帯も多い。

2005年までは、スクマは未利用の氾濫原を家畜の放牧地として、またポゴロが利用しない土地を水田として利用し、スクマとポゴロのあいだでは土地利用をめぐる競合はなかった。また、1974年にはキロンベロ谷はWildlife Conservation Actの施行によって、自然保護の網がかけられ、狩猟や漁撈は禁止されて、場所によっては水田耕作が制限されるようになった。ラムサール条約の指定にともなって、2005年にはプク・アンテロープ、ティラピア、卵生メダカの保護が盛んに進められるようになる。動物保護区の厳格な運用、ポゴロの水田造成にともなって、氾濫原の利用がスクマとポゴロのあいだで競合が生じるようになった。2006年、ポゴロによる大規模な氾濫原の耕起と、それを阻止しようとするスクマの襲撃によって、集団乱闘事件が生じ、関係は悪化した。ポゴロはこの対立について「民族間対立」とみなす一方で、スクマは定住しつづける者と、移出した者に分かれた。定住するスクマは、ポゴロに対する報復を拒否した。

2006年、ハリケーンの襲来によって、氾濫原の水位が上昇した結果、トラクターによる耕起は不可能となり、ポゴロは対立関係にあったスクマの牛耕に依存せざるを得なかった。スクマがウシによってポゴロの水田を耕作したこと、県行政官によってポゴロの逮捕者を出したこと、年長者(wazee)の仲裁によって両者の対立が回避された。年長者の面子をつぶさないために、スクマとポゴロ両者の若者が謝罪し、和解へと向かい、放牧地と水田の境界線が策定された。また、自然保護政策の強化にともなうスクマの追い出しと土地利用(居住、水田)の規制が進められた。ポゴロは当初、スクマの追い出しには賛成していたが、水田耕作が禁止されることを予想したのを契機として、スクマの追い出し反対と水田耕作をまもろうとすべく、中央政府や地方政府に対して陳情を繰り返した。民族集団という枠組みを超えて、ひとつの村の住民として、個人間の関係を築くようになった。調査村の民族間関係には、立ち上がり(対立関係)、昂揚、沈静という時期が存在し、現在では個人間の友好関係が築かれるにいたっていると結論づけた。(大山修一)

 

 

カテゴリー: 生業・環境(テーマ別研究ユニット) パーマリンク