[生業・環境ユニット第8回研究会]熱帯森林利用のローカル・ガバナンスの可能性に関する地域間比較(第4回京都大学地域研究統合情報センター共同研究会および第5回アフリカ自然保護研究会との共催、2014年06月21日開催)

日 時:2014年6月21日(土)14:00-18:00
場 所:京都大学稲盛財団記念館2階213号室

プログラム

山越言(京都大学)
「ギニアの精霊の森のガバナンスをめぐるせめぎあい」

竹内潔
「熱帯森林の豊穣性-持続的利用のワイズ・ユース再考」

報告

山越言(京都大学)
「ギニアの精霊の森のガバナンスをめぐるせめぎあい」

最初に、アフリカにおける自然保護は植民地行政の主導で始まったものであり、自然保護区のデザインは、西欧文化の中で発展した自然観に基づくものであることが指摘された。近年、アフリカの自然保護区では、要塞型保全に代わり住民参加型保全が標準になり、一見ボトムアップ型になったように見えるが、地域住民にさほどの決定権は与えられていない。むしろ、地域住民の間でアクター間の対立が起きるなど、わかりやすかった構図がより複雑になったともいえる。ギニア中部、森林・サバンナ境界域における村落周辺林の成立に関する議論では、「人間活動が森を破壊してきた」という一般論と「人間活動が森を増やしてきた」という内部者の経験知がしばしば対立する。そうした議論を踏まえて、住民主体的なチンパンジー保護がおこなわれてきたギニア、ボッソウ村バンの森の事例が紹介された。村に政府系研究所が設立されたことをきっかけに、森の管理権に関わる村人の抵抗運動が起きた。こうした抵抗運動の中で、平和時には顕在しない在来の自然資源管理デザインについて垣間見ることができた。村人は「森を伐ったほうがチンパンジーのために良い」「森が増えてきてチンパンジーが困っている」といった説明をした。これは森を切り開き、畑を作ることで、チンパンジーは畑の作物を食べることができ、さらに村人とチンパンジーとの出会い頭の事故を防ぎ、人身被害を予防できるという主張である。住民参加型保全では、呉越同舟するアクター同士間に相互理解が必ずしもないまま、いっけん一つの方向に向かっているように見える、メコネサンス(相互誤認)的な状況が成り立っている可能性がある。また、参加型保全が重視する観光収入の地域への還元に代表される保護活動の市場経済化は、消費者である先進国の観光客の意向がより直接に反映される可能性があり、今後、「自然保護区のディズニー化」といえる現象が生じるかもしれない、という議論がなされた。質疑応答では、「精霊の森」が物語とともにあるフィクションではないかという意見や住民の関心が森林動物よりも生業・生活にあるのではないかという意見が出された。(市野進一郎)

竹内潔
「熱帯森林の豊穣性-持続的利用のワイズ・ユース再考」

東アフリカなど他の地域からかなり遅れたが、今世紀に入って、中央アフリカ熱帯森林帯においても、住民参加を謳う森林保全管理が導入されるようになった。しかし、実際には、政府や自然保護NGOが一方的に設定したゾーニングによって地域住民の森林利用が著しく制限され、住民の生活文化の存続が困難になっている例も少なくなく、とりわけ、狩猟採集を生業としてきたピグミー系民族集団は厳しい状況に置かれている。  

本報告では、このような状況を踏まえて、森林と地域住民の関係をめぐる論説が紹介され、また、アカ人の狩猟活動を例として、研究者がローカルな価値を媒介して現在の森林管理を支えるグローバルな価値論理への対抗言説を立てる可能性が探られた。

まず、地域住民についての論説は、過去においては技術水準が低かったために環境破壊に至らなかったが、外部からの経済的・技術的誘因があれば経済的便益のために森林や生物多様性を破壊する功利主義的な存在とする言説と、生業文化に埋め込まれた意図的あるいは(小規模人為攪乱などの)非意図的な在来の知によって森林の持続的利用や生物多様性を維持する環境と調和した存在とする言説に大別される。しかし、森林を希少な経済的・生物学的な資源と前提し、持続的利用と生物多様性保全の尺度で地域住民の営為を評価する点ではどちらの住民像も同工異曲であり、「資源の希少性」の尺度に立つ限り、現地住民は「科学的」管理に掬いとられるか、啓蒙や便益調整が施される操作対象にとどまり続けるという指摘がなされた。

次に、ローカルな森林の価値について、アフリカ、コンゴ共和国の熱帯森林に居住するピグミー系狩猟採集民アカ人の集団網猟の事例が紹介された。集団網猟は、猟場の生態学的特徴に応じた技法を持つ、すぐれて技術的な食糧獲得手段であると同時に、生活単位である家族集団が複数集まって協働し、交流する営為だとされる。参加者たちが、狩猟に費やすのと同程度の時間を歓談に費やし、さらに、猟果が芳しくない時でも、歓談時間を減らして猟の回数を増やし、網で囲い込む森林面積を拡大してエモノの獲得可能性をあげるという対処がとられないことが、計量的に示された。このようなアカの狩猟実践の根底には、不運(不猟)だけでなく(そのうち)必ず幸運(豊猟)も与えてくれ、交流と歓談の機会をたっぷりと提供してくれる森林の「豊穣性」に対する信念があることが指摘された。アカ人にとって、森林は個々の経験や人生と分かちがたく結びついた生きられる場であって、人間に様々な経験を供する豊穣の価値(即自的価値)は認められても、使用価値や交換価値などの経済的便益や生物学的多様性が産み出される客体化された「資源」ではないという考察が示された。

さらに、生物学的多様性や持続的利用などの「希少性」の「大きな物語」に対して、アカ人のような政治的凝集力をほとんど持たない人々の様々な「小さな物語」を文化保全という別の「大きな物語」の内実へと繋いでいくことが、現地に足場を置く研究者がなしうる仕事であり、また、西欧近代由来の自然観から脱却した新たな視野の地平を拓く橋頭堡だという主張がなされた。

以上の報告に対して、質疑応答では、管理をめぐる諸アクターの動態は多面的であり、グローバルな価値を静態的かつ単純化して捉えているという指摘があった。また、アカ人のローカルな価値についての具体的立証が不十分である、グローバルな価値を利用しつつ住民の社会文化存続の方途を考える方向性もありうるといった意見が示された。(竹内潔)

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