[海外出張報告] 澁谷 和朗(教育・社会班) ガーナ 海外出張期間:2017年1月28日~2月8日

「学校運営における保護者・地域住民・生徒・校長・教師間の信頼構築に関する研究」
澁谷 和朗

(派遣先国:ガーナ/海外出張期間:2017年1月28日~2月8日)

アフリカ諸国では、教育の機会を求め地域社会が小中学校を建設し、限られた資源を出し合いながら支援してきた歴史があります。その後、政府は1990年代以降、万人のための教育(Education for All)を実現すべく、小中学校教育を義務化・無償化し、授業料を撤廃して教育機会の拡大を進めてきました。このような負担軽減により、地域社会や親は政府が学校教育を担うものという印象を強めました。その一方で、中央政府の教育財政難、学校現場での意思決定、アカウンタビリティの確保という文脈から、地域社会・保護者の学校運営への参加を奨励する政策、所謂、自律的学校運営(school-based management)が1990年代以降今日まで世界的に実施されています。

ガーナの教育分野では1995年に法令で、首長の代理、教育長、郡議会議員、地域社会の代表、親の代表、校長や教師代表等で構成される「学校運営委員会(School Management Committee)」が各学校に設置され、学校改善計画の立案、学校交付金の活用に取り組んできた歴史があります。これは学校運営における意思決定に地域や親の声を取り入れ、学校が地域住民や親に対しての学校の努力と情報を開示して、アカウンタビリティを果たすための近代的行政制度の一端と言えます。一方で、援助機関からの手厚い支援が終了し、学校交付金が配賦されなくなると、多くの場合、学校改善計画は策定されなくなり、一連の取り組みは形骸化していきました。それでも、地域社会や親が引き続き限られた資源を出し合い、学校の発展と子どもの教育のために尽力する事例は見受けられます。このような昔から続く地域社会、親の学校への支援はどのようなメカニズムで引き起こされるのだろうか、資源制約があっても持続可能な学校運営にどのような示唆をもたらせるだろうか、というのが私の研究の出発点です。

ガーナでの現地調査では、アコソンボダムで有名なボルタ州にあるアカチサウス郡を対象に、地域社会・親の学校運営への参加が活発な学校2校と不活発な学校2校で調査を行いました。まず学校と地域社会・親との関係の歴史、重要な出来事・支援について関係者の過去の記憶を遡ることから始めました。さらに、先行研究から大事な視点として抽出された、学校に対する「ビジョン」(このような学校・学習環境にしたいという展望・願い)、「支援」(学校及び教師に寄せられた支援)、「コミットメント」(地域社会、親、校長、教師による具体的な改善への取り組み)、「コミュニケーション」(日々及びPTA総会での情報共有)の4点を意識して、校長、教師、PTA会長、学校運営委員会関係者に対する聞き取り調査を行いました。

学校運営が活発な学校の事例からは、「学校に対するオウナーシップの歴史」、「校長の学校運営におけるリーダーシップ」、「責任を持って応えるPTA/学校運営委員会」、という学校運営に必須と考えられる3つの要素と、それらを繋ぐ集団的行為(collective action)の循環(地域社会・親による学校・教師への支援→校長・教師のコミットメント→結果(就学と学習成績)の発現→関係者間の情報共有)が見られ、今後さらに詳しい分析を進めたいと考えています。

最後に、今回の調査で運よくある学校のPTA総会に参加することができました。100名以上の親、地域住民が平日の午前中にそれぞれの仕事を中断してここに集い、学校の校舎増築のための資金動員について真剣に話し合う様は子供の教育環境をよくしたい人たちの熱意そのものの表れでした。その中で校長が子供の教育に対する親の責任(具体的には幼稚園の成績レポート用紙の購入、スクールバッジの購入、万が一の事故に備えた保険への加入)を何度も親に求めていたことが強く印象に残りました。多くの文献やこれまでの学校運営での支援事例では、地域住民や親が校長や教師に対して、学習成績など結果に対するアカウンタビリティを求めるという図式が多く見られていたからです。教育とは親、学校どちらか一方に責任を押し付けるものではなく、相互の連携と信頼に基づくものであるであることを再度認識し、そこに持続的な学校運営のヒントを見た思いがしました。今後、ガーナの小中学校教師のキャリア形成、教育の地方分権化の文脈など複数の切り口から本調査で得られたデータを分析していきたいと考えています。

PTA幹部打ち合わせでの聞き取りの様子

学校と地域社会との歴史を過去に遡って聞き取り

100名を超えるPTA総会への参加者

[海外出張報告] 村田 はるせ(言語・文学班) セネガル 海外出張期間:2016年12月6~23日

「セネガルでの児童書出版と子どもの読書の現状をさぐる」
村田 はるせ

(派遣先国:セネガル/海外出張期間:2016年12月6~23日)

セネガルを含む西アフリカの旧仏領諸国では、いまも公用語がフランス語で、教育言語もフランス語です。出版物の多くもフランス語で書かれています。私はこのような地域で国内出版された絵本に関心をもっています。じつはこの地域の諸国では独立以来、流通する本の90%はフランスやカナダからの輸入です。子どもは本のなかで、西洋の世界とそこで暮らす白人の子どもの物語を読んできたのです。それでも1990年代以降には、小規模な出版社が各国に誕生し、アフリカの子どもが「ここにはわたし/ぼくのことが書かれている」と思えるような本を出版するようになりました。

しかし本は高価で、一般の人にとってはいまだに贅沢品です。このため本の市場は小さく、小規模出版社は資金難に苦しんでいます。セネガルの出版社に尋ねると、本の印刷を北アフリカやアジアの国々で行うと費用が抑えられ、本の価格も下げられるということです。けれども、出版産業を育てるなら国内の印刷会社を犠牲にすべきでないとして、これに反対する出版社もあります。また出版社は協会を作り、出版促進のための政策をとるよう政府に迫っています。求めているのは、現在フランスなどの出版社が独占している初等・中等教育教科書市場の一部を国内出版社に配分すること、出版用の紙やインクを輸入した際の関税を廃止すること、出版社向けの補助金の運営の透明化などです。

セネガルでは、子どもの読書環境を整えようとする活動も目にしました。首都ダカールの住宅地にある小さな書店は、無料で貸本をしています。そこでは、そろえてある貸本をたちまち読みつくす子、読書の結果、創作を始めた子に出会うことができました。また地域図書館を訪れたときには、地元の若者がボランティアで図書館を維持管理していました。この国では教科書や参考書を買えない家庭が多いなか、ある中学校の校長先生は、生徒の勉強のため、寄付を募って学校図書館を開設しました。

ところでフランス語の本ばかりが流通し、学校で子どもが母語の読み書きを習うことがほとんどない、セネガルを含む西アフリカの旧仏領諸国では、フランス語を習得しなければ読書はできません。セネガルにはウォロフ語やプラール語、セレール語などセネガルとその周辺国のアフリカ諸語で書かれた本を出版し、流通ネットワークを作った出版社があります。本は、農村で母語での識字教育を受けた人々に届けられるのです。出版社の責任者は、アフリカでは多くの人々が自分自身の言語で読み書きできない、それは大きな問題であると言いました。

子どもの本と出版を取り巻く以上のような状況、それに対する出版社や作家、個人の取り組みを、これからも探求していきたいと思っています。

貸本をする書店の貸し出しノート

貸本をする書店の貸し出しノート

地域図書館で読書する子

地域図書館で読書する子

[海外出張報告] 藤山 真由美(開発・生業班) コートジボワール 海外出張期間:2016年10月11日〜12月22日

「コートジボワール西部における内戦後の土地を巡る紛争」
藤山 真由美

(派遣先国:コートジボワール/海外出張期間:2016年10月11日〜12月22日)

コートジボワールでは2010年12月から2011年4月の第二次内戦により、政府の発表によると約3200名の犠牲者が発生しました。私が調査を実施した西部のゲモン州及びカヴァリー州はアビジャンに次いで犠牲者が出ており、一般的にいまだ危険な地域とのイメージがありますが、内戦終了から5年が経過して治安は回復し、内戦で破壊された小学校や住居が再建されています。

コートジボワールは世界最大の生産量を誇るカカオの生産国であり、調査地の西部は南西部、中西部に次ぐカカオの生産地です。初代大統領ウフェ・ボワニが1963年に表明した「土地は開墾した者に帰属する」という方針のもと、コートジボワール国内だけではなく、ブルキナファソなどの国外からも多くの移民がカカオの生産に適した地域に移住しました。西部にも国内外から多数の移民が入植し、その人口は西部の先住者を上回っています。

今回の調査では、西部のゲモン州・カヴァリー州における10カ所の村で、2002年以降の内戦が同地域の土地問題にどのような影響を及ぼしたのかについて調べました。調査地は、2002年の第一次内戦で隣国リベリア内戦の影響も相まって政府軍と反乱軍の戦闘が激化し、アビジャンの次に国内避難民が多く発生しました。住民が避難している間、保有者不在となった土地は、本来の保有者ではないと思われる者から、新たに流入した国内・国外の移民に販売されるという事態が頻発しました。内戦が終了した後にゲモン州・カヴァリー州から避難していた住民が帰還すると、自分が保有すると見なしていた土地が無断で販売され、新たな移民に占有されているという状況に直面し、本来の土地の保有者であると主張する住民とその土地を購入した移民との間で、土地の権利を巡る問題が多発しています。今後、実施した調査結果の分析を進め、ゲモン州・カヴァリー州における内戦と土地問題の要因を考察していきます。

写真1 カヴァリー州調査対象地の村 住民へのインタビュー(2016年11月撮影)

写真1 カヴァリー州調査対象地の村 住民へのインタビュー(2016年11月撮影)

写真2 カヴァリー州調査対象地の村 乾燥中のカカオ豆(2016年11月撮影)

写真2 カヴァリー州調査対象地の村 乾燥中のカカオ豆(2016年11月撮影)

写真3 ゲモン州調査対象地の村 内戦中に放火された住居(2016年11月撮影)

写真3 ゲモン州調査対象地の村 内戦中に放火された住居(2016年11月撮影)

[海外出張報告] 辻本 温史(教育・社会 班) ルワンダ 海外出張期間:2016年12月3日〜12月18日

「ルワンダにおける教員の能力向上にかかる調査」
辻本 温史

(派遣先国:ルワンダ/海外出張期間:2016年12月3日〜12月18日)

1994年4月~7月にルワンダで起きた大虐殺の犠牲者は、100日間で80万人とも100万人ともいわれています。これは当時の全国民の10%~20%が犠牲になったことを意味します。またそれだけではなく200万人を超える多くの難民を生み出しました。虐殺では多くの教員が犠牲になっただけではなく、学校・教材といったインフラ、教育制度も破壊されました。しかし、1994年7月に内戦が終結すると、各国の積極的な支援を受け、2000年には初等教育就学率が内戦前の水準に戻るなど、急速な回復を遂げました。2000年以降は、毎年7%~8%の好調な経済成長を背景に、12年制基礎教育、教員研修機会の拡大などの教育改革が進められてきました。

わたしは、2010年11月から2012年11月まで、JICAルワンダ事務所で教育分野を担当しました。ルワンダでは、現政権の強いリーダーシップの元、明確な政策と目標が掲げられ、政府はそれを実施するための努力をしています。一方で、政策自体が現場の実態と乖離していることが課題となっています。例えば技術教育・職業訓練分野では、技術標準枠組みとそれに基づいたカリキュラム及び教員/指導員資格制度を導入しようとしていますが、技術標準枠組みを主導する産業界が未成熟な上、ほとんどの教員/指導員は現行の仕組みでも十分に指導できる能力を備えているとは言えません。

そこで、わたしは教員個人がどのように教員としての力量を形成し、どういった困難を抱えているのか、教員個人の語りを中心とした調査を開始しました。まだ開始したばかりですが、虐殺の直接的な影響だけでなく、その前後の混乱期にも様々な困難に直面した実態が明らかになってきております。また、教員養成制度・資格制度が十分に整備されているとはいえない中で、必ずしも十分な知識や技能を持たないまま教員となった個人が、様々な研修機会を活用し、教員同士の助け合いを通して、教員としての能力を強化し、自信を得てきたことが少しずつ見えてきました。今後は収集した教員の個人の語りの分析を進めていきたいと思います。

千の丘の国と呼ばれるルワンダ

千の丘の国と呼ばれるルワンダ

教員へのインタビュー

教員へのインタビュー

授業の様子

授業の様子

[海外出張報告] 大山 修一(開発・生業 班) ニジェール 海外出張期間:2016年9月20日〜10月4日

「サヘル・ニジェールにおける都市衛生の改善と環境修復、紛争予防の試み」
大山 修一

(派遣先国:ニジェール/海外出張期間:2016年9月20日〜10月4日)

西アフリカ、サハラ砂漠の南縁に位置するサヘル地域では現在、テロの頻発と治安情勢の悪化が深刻になっています。その原因として、リビアやアルジェリアにおける政権交代による国内情勢の不安定化、アルカイダをふくむイスラム武装勢力の流入、独立をめざすトゥアレグの反政府勢力の影響を挙げることができます。また、サヘル地域の各地で農耕民と牧畜民の武力衝突が激化しています。経済・平和研究所(Institute for Economics and Peace)が発行する『Global Terrorism Index 2015』によると、2014年の一年間にフルベと農耕民との武力衝突による死者数は1,229人になるという報告があり、その原因として稀少化する土地資源をめぐる競合があるという。また、テロ組織であるボコハラムによる被害者は6,646人にもなります。その背景には、低開発と貧困、飢餓の問題、政府の行政能力の低さがあります。

わたしは2000年からサヘル地域にニジェールで調査を継続していますが、近年、都市の清掃による都市の衛生改善と、荒廃地の緑化、農耕民と牧畜民の紛争予防という試みをつづけています。2015年からは三井物産環境基金の支援を受け、ニジェール環境省、首都ニアメ第4住区、衛生局、ドゴンドッチ市と協定をむすび、都市の内部でのゴミ収集、農村の荒廃地へゴミを運び、緑化をすすめ、共同放牧地をつくるという事業をおこなっています。2012年にゴミを投入した共同放牧地では毎年、家畜の放牧をおこない、落とされる糞が養分になることは分かっていましたが、糞に含まれる種子が発芽し、樹木が大きく生長することが明らかになりました。

雨季には農地が広がるため、牧畜民のフルベは放牧地探しに困窮します。その雨季の終わりに、フルベの牧畜民が毎年、プロジェクト・サイトで家畜の放牧をするために集まって来ます。また、ワサビノキをはじめ有用樹種が多く生育しているため、農耕民の女性たちが食用植物を採集しにやって来ます。プロジェクト・サイトには、おおくの周辺住民―農耕民も、牧畜民も集まってきて、めいめいに利用しています。建設後4年が経過すると、プロジェクト・サイトはコミュニティ・フォーレストのようになってきました。わたしは、毎年、大きくなるバオバブの生長を楽しみにしています。この試みにより、人々の生活が少しでも改善し、人と人とのつながりをつくることを願っています。サヘル地域の現状は非常に厳しいものがありますが、「アフリカ潜在力」とは、こうした小さな試みから生まれてくるものではないかと期待しています。現在、15か所、5.32ヘクタールのプロジェクト・サイトを建設しましたが、今後2年間で計30か所、10ヘクタールのサイト建設を目標にしています。

プロジェクト・サイトにおける牧畜民フルベによる家畜の放牧(2016年9月撮影)

プロジェクト・サイトにおける牧畜民フルベによる家畜の放牧(2016年9月撮影)

プロジェクト・サイトにおける農耕民ハウサの女性による植物の採集(2016年9月撮影)

プロジェクト・サイトにおける農耕民ハウサの女性による植物の採集(2016年9月撮影)

2016年9月に植物が生育するプロジェクト・サイト建設当時の様子(2012年2月撮影)

2016年9月に植物が生育するプロジェクト・サイト建設当時の様子(2012年2月撮影)

プロジェクト・サイトに生育するバオバブの木(2015年11月)

プロジェクト・サイトに生育するバオバブの木(2015年11月)

この出張は、三井物産環境基金(環境活動助成)「西アフリカ・サヘル地域における都市の有機性廃棄物と家畜を利用した緑化活動」により実施いたしました。

[海外出張報告] 落合 雄彦(対立・共生 班) シエラレオネ 海外出張期間:2016年6月9日〜6月24日

「植民地期シエラレオネの狂気の歴史:西アフリカ最古のキッシー精神科病院訪問」
落合 雄彦

(派遣先国:シエラレオネ/海外出張期間:2016年6月9日〜6月24日)

今日のシエラレオネは、イギリスの奴隷貿易廃止論者が在英の黒人貧民のために建設した入植地を起源とする。その後、19世紀初頭に奴隷貿易禁止の法律がイギリス議会で成立し、やがて同国海軍による奴隷船拿捕がアフリカ西海岸の沖合で広範に展開されるようになると、シエラレオネは拿捕された奴隷船からのいわゆる奪還奴隷を上陸させる拠点となり、多くの解放奴隷が同地に流入するようになった。

そして、そうした解放奴隷のなかに鬱病や異食症といった精神疾患を患っている者が少なからずみられたこともあって、シエラレオネ植民地政府は1854年、同植民地の中心地フリータウンの東部郊外にあるキッシーの丘に精神病者を収容するための専用施設(アサイラム)を開設した。これが、英領西アフリカ最古の精神病者収容施設となるキッシー・アサイラムである。

この写真は、キッシー・アサイラムを史的起源とし、今日のシエラレオネで唯一の精神科病院であるシエラレオネ神経精神科病院を背にしながら、大西洋に流れ込むシエラレオネ川河口方面を撮影したものである。19世紀にキッシー・アサイラムに収容された精神病者の人びともまた、このキッシーの丘の上から、自分たちがやってきた海を眺めたのだろうか。遠く離れた故郷の地に郷愁の念を抱いたのか。ある史料によれば、1885年から1890年までの6年間にキッシー・アサイラムに収容された精神病者数は計105名であるのに対して、寛解などによって退所を許された者の数はわずか20名にすぎず、逆に感染症などのために死亡した者の数は50名にのぼった。このように19世紀当時のキッシー・アサイラムでは、死亡者数が退所者数をほぼ常に上回っていたのであり、死亡者があまりに多かったために、アサイラム管理者側はその遺体埋葬スペースを確保することに大変苦労したといわれている。キッシー・アサイラムは、そこに収容された多くの精神病者にとって、社会復帰を果たすための人生の通過地点ではなく、その終焉を迎える場にほかならなかったのである。

201606ochiai