早川真悠(開発・生業班)南アフリカ、レソト、ジンバブエ 海外出張期間:2018年2月23日~3月25日

「ヨハネスブルグのジンバブエ人移民」
早川真悠

(派遣先国:南アフリカ、レソト、ジンバブエ/海外出張期間:2018年2月23日~3月25日)

ヨハネスブルグのジンバブエ人
わたしはこれまで南部アフリカのジンバブエで人類学の調査をしてきた。わたしが長期調査をしていた2007年から2009年、この国は深刻な政治・経済危機の状況下にあった。調査中、わたしの現地の知り合いたちが、ひとり、またひとりと周辺諸国へ移住していった。

南アフリカのヨハネスブルグには、わたしがかつて首都ハラレに住んでいたとき親しくしていたジンバブエ人が多く住んでいる。行政機関で経理の仕事をしていたミミ、国立病院でジュニア・ドクターをしていたO、証券会社につとめていたJとその家族、飲食店のマネージャーをしていたBとその家族、大学院で経済学の修士号をとったものの就職先を見つけられなかったT。勤め先からまともな給料が支払われない、子どもにパンを買ってやれない、就職先がなく将来の見通しが立たない、ジンバブエではすることがないなど、生活の困窮や将来の不安を訴えて、彼らはみな2008年にジンバブエを去った。

彼らは全員、わたしがハラレで同居していたルームメイトCの友人だった。彼らはわたしたち二人の家をよく訪ねてきた。わたしたちも彼らの家を訪ねた。お客が来るとわたしたちはお互いに、食料不足のなか家にあった食べ物や飲み物を囲みながら、ジンバブエの経済状況や日常必需品の入手方法、個人個人がそのとき抱えていた問題などについて冗談まじりに明るく話した。誰かの家で会わなくても、何かのきっかけで誰かのその日の予定に合流し、一緒に歩いたり、車に同乗したりして用事に付き合うこともよくあった。そんなふうに、わたしたちはハラレでよく一緒にいた。

<訪ねあうこと(kushanyirana)>、<語らうこと(kutandara)>、<(人の用事に)ついていくこと(kuperekedza)>は、ジンバブエの人たちが日々の暮らしのなかで大切にしていることだ。

今回の南アフリカでの調査では、わたしがハラレに住んでいたころ親交のあった上記ジンバブエ人移民たちの家を訪問し、ヨハネスブルグでの暮らしについて話を聞いた。9年以上ヨハネスブルグで生活を続ける彼らの話を聞きながら、ジンバブエで人びとが日常的にしていた、<訪ねあうこと>、<語らうこと>、<(人の用事に)ついていくこと>について改めて考えた。

移住
今回の調査中、一番多くの話を聞かせてもらったのは、わたしを自分の家に住まわせてくれたミミだ。ミミは2008年12月にヨハネスブルグへ移住した。彼女はハラレの行政機関で経理の仕事をしていたが、2008年には給料がなかなか支払われず、支払われても交通費のほうが高くつくというような理不尽な状況がつづき、次第に職場へ行かなくなった。半年以上かけてパスポートと南アフリカの一時入国ビザを取得し、そのあいだにヨハネスブルグに住むジンバブエ人の友人とこまめに携帯電話で連絡を取り、そのツテを頼って、生まれて初めて国境を越えジンバブエを後にした。

ヨハネスブルグに着いた当初は、友人のジンバブエ人宅に居候させてもらい、近所の教会で掃除をしたり、小麦粉で作った揚げ物を家の近場で売ったりして日銭を稼いだ。移住から3,4カ月たったとき、居候先の友人が自分の職場の事務の仕事を紹介してくれた。それからは契約期間などの都合で数年ごとに仕事を変えながら、ジンバブエ人の借りるフラットの一間を間借りして友人とシェアしたり、スーパーの張り紙で知ったカメルーン人のフラットの一間を一人で借りて住んだりした。

現在ミミは水道の部品メーカーで経理の仕事をしながら、ヨハネスブルグ郊外の住宅街ボクスバーグにある1DKのフラットを自分で借りて一人で暮らしている。移住後4年目に運転免許を取得し、5年目には中古車を買った。移住した当初は通勤や買物には徒歩や乗合タクシーを使っていたが、今では職場へも車で通勤し、どこへ行くにもほとんど車を使っている。

移住から9年経った現在も終身雇用の仕事につけておらず、永住ビザが取れていない。それでも、ミミはジンバブエに住む両親にも定期的に物品を送っており、自分の生活だけでなく、両親や兄弟家族の生活も助けられるようになった。ヨハネスブルグへ移住した彼女の生活は、ジンバブエでの生活よりも格段に着実に「よく」なった。

訪ねあわない生活
生活はよくなったけれど、ヨハネスブルグでの生活はジンバブエの生活とは違う、とミミはいう。南アフリカは犯罪が多い、あからさまな人種差別がある、移民に冷たい、そして友人宅を訪ねる機会がとても少ない。友人というのは、ヨハネスブルグに住むジンバブエ人たちのことだ。

友人を訪ねる機会が減ったというのは、ミミ以外のジンバブエ人、O、J、Bも同じように口にした。その理由を彼女たちはさまざまに説明した。ヨハネスブルグの街はハラレに比べてとても広いので友人の家が遠すぎる、仕事が忙しく勤務時間の融通も利かないので友人に会いに行く暇がない、夜は危険なので仕事が終わるとまっすぐ家に帰るしかない、友人の家の近くを通りかかっても不在であることが多い・・・。彼女たちが言うように、わたしも今回、OとJそれぞれに会うために、前々から連絡を取って日程を決め、必ず会えるようしっかりと段取りを整えた。彼女たちの家はミミの家から車で1時間ほどかかる。民間企業や国立病院に勤める彼女たちに会えるのは、仕事も教会もない土曜日しかない。ハラレにいたときのように、気が向いたときにお互いの家をふらっと訪ねることはできなかった。

ミミの家に住んでいても、気軽に外へ出かけるのがなかなか難しいと分かった。彼女の集合住宅のコンプレックスは、これまで彼女がヨハネスブルグで住んだ家のなかでもっとも「よい」住まいだ。広い敷地に40棟以上の集合住宅が整然と建ち並び、ゲートには守衛が24時間駐在する。(守衛のうち何人かはジンバブエ人だった。)住人以外の者が訪ねて来ると、守衛から住人の携帯電話に連絡が入り、訪問者を入れてよいかどうか確認がとられる。コンプレックスは高い塀で囲まれ、塀の上部には防犯用に高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされている。

コンプレックスの敷地内にはグラウンド、プール、ジャングルジム、ブランコ、トランポリンがあり、住民の子どもたちはそこで遊べるようになっている。ゲートから外へ歩いて5分のところに公園があるが、わたしが通りかかったときはいつも、そこで遊んでいる子どもはいなかった。

集合住宅のゲートを出ると、アスファルトの道路と歩道が広がる。すぐ近くに路上商などの姿はなく、乗合タクシーも停まらない。乗合タクシーに乗るには彼女の家から30分ほど歩いて、大きなショッピング・モールへと通じる幹線道路にまで出なければならない。この幹線道路沿いにある食料雑貨店の前が乗合タクシー乗り場になっている。その雑貨店の前では、ジンバブエ人の女性がジンバブエでよく食べられる青菜を売っていた。しかし、ミミはこの女性のことを知らなかった。

ミミがこの食料雑貨店や露店で買物をすることはほとんどない。彼女が普段、買物をするのは車で5分のところにあるショッピング・スクエアか、車で10分のところにあるショッピング・モール内のスーパーマーケットだ。歩いて行こうと思えば行ける距離だが、荷物と治安のことを考えるとあまりおすすめしない、とミミは言った。その代わりにミミがわたしにすすめたのが、スマートフォンの配車アプリ「Uber」や「Taxify」を使うことだ。車を持たないわたしが一人でスーパーやモールへ行くときは、これらのアプリを使って車を呼び、自分の現在地から目的地まで移動した。その目的地での用事が済むと、また同じ場所からアプリで車を呼んで家に戻った。どこへ行くにもとてもスムーズだった。(何人かのドライバーはジンバブエ人だった。)

ミミは普段、ほとんど外を歩かない。ある土曜日の夕方、わたしがミミを誘い1時間ほど一緒に散歩をした。彼女は、「ありがとう。外を歩くなんて久しぶり。よい運動になった。」と言った。

訪ねあう、語らう、ついてゆく(ヨハネスブルグの場合)
それでもミミは、わたしが今回の調査で会った人たちのなかではジンバブエ人とのつながりを日ごろから大切にし、積極的に交流しているほうだ。彼女が通う教会は、ハラレに住んでいたときに通っていたのと同じ教会の支部で、日曜日にはジンバブエの現地語ショナ語と英語で礼拝がおこなわれる。礼拝に集まる約200 人のうちのほとんどはジンバブエ人だ。この教会支部は1年ほど前にでき、ミミは教会のリーダーの一人に選出された。日曜日の礼拝だけでなく、月曜の夕方のお祈り、水曜の夕方のセル・グループの集まりにもミミは欠かさず出席する。

ミミが仕事へ行く平日、わたしはミミと同じく教会のリーダーを務めるBさん(自営業)、Oさん(産休中)とよく一緒にいた。(わたしがミミの職場を訪ねることはできなかった。)ある平日の午前中、わたしがミミの家に一人でいると、BさんからWhatsAppでメッセージが届いた。今から車で迎えに行くので自分の家に遊びに来てはどうかという。Bさんは2007年にカドマから夫と娘二人とともにヨハネスブルグにやってきた。現在は19歳になる次女と二人で郊外の2LDKのフラットに住んでいる。彼女に車で迎えに来てもらって家に到着すると、次女が朝食を作りながら待っていてくれた。マーガリンをしっかり塗ったトースト、トマト入りのスクランブルエッグ、砂糖のたっぷり入ったミルクティ。ジンバブエ人が理想とする朝食だ。朝食を食べ終えて紅茶の残りを飲みながら、わたしたちはおしゃべりをした。そのあと、彼女の家の近くの湖まで車で行き、そこでアヒルや湖面や雲を見たりしながらまたおしゃべりを続けた。湖畔はとても静かだった。数時間そこにいても、誰もわたしたちに話しかけてくる人はいなかった。「わたしたち、いい時間を持ったわよね。」とBさんは言った。

その翌日、BさんとOさんがヨハネスブルグの中心街に買物へ行くというのでわたしもついていった。警察の取り締まりをうまく避けながら高速道路を車で30分ほど走り、中心街から少し離れたところにある「チャイナ・モール」へ到着した。ここには台所用品や家財道具を取りそろえた店があり、BさんとOさんは鍋やガス台、食器など、教会の催しで使う調理器具の値段を聞いていた。ひとつ、ひとつの商品の値段を聞き終わるたびに、彼女たちは「行きましょう(handei)」と言って、次の売り場にゆっくりと移動した。

調理器具の値段の確認が終わると、今度はBさんの長女の靴を見るために、中心街へ移動した。道路脇の駐車スペースに車を停め、Bさんはわたしのパスポートと携帯電話を預かり、余計なものはいっさい持って歩かないよう忠告した。わたしたちは少し気合を入れて道を歩き、一軒の靴屋に入った。店の中でわたしたちがショナ語を話していると、女性がひとりショナ語で話しかけてきた。わたしたちはその女性と靴について話をした。Bさんは悩んだ末に、結局今回は靴を買わないことにした。わたしたちは店の外へ出て、車を停めた場所まで歩いた。

無事に車へ戻り、わたしたちは家のあるボクスバーグへ向かった。「ヨハネスブルグの中心街も歩けるでしょう? ただし、ここへ来るときは用事をいっぺんに済ませるようにしないとね。何度も頻繁にくるべき場所ではないわ。」Bさんは言った。

ジンバブエの人たちとショナ語でおしゃべりをしたり一緒に歩いたりして、ゆったりとした時間を味わっていると、ここがヨハネスブルグだということを忘れそうになる。けれども、こうしてわたしを受け入れてくれたBさんも、Oさんも、ヨハネスブルグではジンバブエのように知り合いを訪ねあうことができないと言った。

訪ねあう、語らう、ついていく(ハラレの場合)
この調査期間の最後に、ジンバブエのハラレに3日間滞在した。初日、大学での用事が午前中で済み、ふっと時間が空いたので、町の中心部にある行政機関に務めるタピワに携帯電話で連絡した。タピワが職場に来ても良いというので、昼休みが終わるころ訪ねた。ゲートでわたしが守衛に挨拶をすると、建物の中に入れてくれた。タピワのオフィスですこし談笑した後、わたしたちはすぐに外に出た。タピワが知り合いに頼まれたというレターを、近所にある別の行政機関まで取りに行くためだ。わたしはその用事について行った。その日は日差しが強く、暑かったので、わたしたちはなるべく汗をかかないようにゆっくりと歩いた。レターを受け取り、再び来た道を歩き、わたしたちはタピワの職場に戻った。それからタピワはしばらく仕事をこなし、わたしは彼のオフィスの隅に座っていた。その後、わたしたちはもう一度外へ出た。今度は彼の職場から2ブロックほど離れたところに停めてある車を取りに行くためだ。わたしもまた一緒についていった。普通に歩けば10分もかからない道のりのはずだが、道の途中でタピワが3度、知り合いから声をかけられ、そのたびに足を止めて挨拶と世間話をするので、目的地までなかなかたどり着かなかった。

そうこうしているうちに勤務時間が終わった。タピワの家はわたしの宿泊先と同じ方向だったので、彼の車に乗せてもらうことにした。タピワの友人の奥さんベアトリスも彼の車に同乗することになっていた。わたしたちはまず彼女の職場へ行き、彼女を拾って家まで送り届けた。家に着くとベアトリスが上がっていけと言うので、わたしとタピワは彼女の家に上がってソファに座って30分ほどおしゃべりした。

ベアトリスの家を出た後、わたしはタピワに頼んで、彼の家の近所にある大きなスーパーマーケットに寄ってもらった。わたしがスーパーで買物をしていると、向こうの方から男の子が勢いよく走ってきて、わたしの脚に抱きついた。誰かと思えば、その日わたしが泊まることになっていた、エリックの家の長男だった。突然のことにわたしが驚いていると、今度はエリックが嬉しそうに、でもとくに驚いたようすでもなく、ゆっくりと歩いて近づいてきた。わたしとタピワはエリックに挨拶をし、話をしながら一緒に買物を済ませた。エリックの奥さんのルンビが駐車場に泊めてある車の中で待っているというので、わたしとタピワは買物の荷物を持ってエリックの車まで彼女に挨拶しに行った。挨拶を終えると、ルンビはタピワに自分の家に寄って一緒に夕飯を食べるように言った。

タピワはわたしをエリックとルンビの家まで送り届け、その後、彼らの家に上がった。ルンビがサザと青菜、鶏肉をそれぞれの皿に取り分けた。エリック、ルンビ、タピワとわたしはソファで一緒に夕飯を食べた。三人の子どもたちは遊んでばかりで、なかなか食べ終わらなかった。食後はわたしがスーパーで買ったスイカを切り分けて、みんなで食べた。スイカを食べながら、わたしたちはおしゃべりをした。タピワがそろそろ帰ると言うと、ルンビが彼に言った。「来てくれて、ありがとう。ゆっくりお話ができて、とても嬉しかった。」

おわりに
今回の南アフリカでの調査であらためて気づかされたのは、ジンバブエで日常的に人びとがおこなう<訪ねあうこと>、<おしゃべりを楽しむこと>、<(人の用事に)ついていくこと>が、いつでもどこでも簡単に、当たり前のようにできるわけではないということだ。わたしが今回会ったヨハネスブルグのジンバブエの人たちはこれらの行為を懐かしそうに思い出し、ヨハネスブルグではなかなかできなくなってしまったことを少し寂しげに語った。

わたしはこれまで、ほとんどジンバブエでしか調査をしてこなかった。気が向いたときにふらっと人を訪ね、おしゃべりを楽しみ、人の用事についていき、とくにこれといった理由がなくてもただ人と一緒にいる、という彼らのやり方に、滞在当初はたしかに戸惑っていたけれど、最近は彼らのしていることがごく自然に感じられるようになり、とくに注意を払わなくなっていた。もっと言えば、こうした行為は、ジンバブエだけでなくアフリカではどこでも普通なのだろうとさえ思っていた。

ヨハネスブルグに住むジンバブエ人たちも、ときには人を訪ね、おしゃべりを楽しみ、親しい人たちと時間を共有しようとする。たとえば、Jの友人のジンバブエ人は、ヨハネスブルグであまりに人の家を訪ねあわないので、月に一度定期的に集まるようにしてはどうかと提案したという。

けれども、おそらく彼らが本当に求めているのは、そのような手筈の整った会合ではないだろう。彼らが懐かしみ恋しがっているのは、ただ目的として人と顔を合わせおしゃべりをすることではなく、ふらっと町を歩き人を訪ね、偶然に人と出くわし、その出会いと流れのなかでその日の予定が変わり、新たな展開が生まれていくような、もっとゆるやかでおおらかな社交の仕方なのだと思う。流れや過程よりも、目的や結果に重点が置かれがちなヨハネスブルグの<訪ねあい>に、ジンバブエ人移民たちはあまり納得がいっていないようだった。

長距離バスが乗り入れるヨハネスブルグのパーク・ステーション

ジンバブエ人が集まるヨハネスブルグの教会(ゴスペルの字幕はショナ語)

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