【2013年度派遣報告】佐川徹「Democratic Developmentalism下の周縁社会 ―エチオピア西南部の商業農場開発と牧畜民ダサネッチ―」

(派遣先国:エチオピア/派遣期間:2013年12月~2014年1月)
「Democratic Developmentalism下の周縁社会
―エチオピア西南部の商業農場開発と牧畜民ダサネッチ―」
佐川徹(京都大学アフリカ地域研究資料センター・助教)
キーワード:土地強奪, 民主的開発主義, 象徴仲介者, ローカルエリート, 牧畜社会

研究の背景と目的

インド資本が整備した農場。
総面積は1万haにおよぶとされる

エチオピア南部諸民族州サウスオモ県は,ケニアや南スーダンと国境を接するエチオピアの西南端に位置している。同県のなかでも牧畜につよく依存した生活を営む集団がくらすオモ川下流平原(行政的にはサラ・マゴ郡,ニャンガトム郡,ダサネッチ郡)は,近代国家や市場経済からの影響が相対的に小さい地域であった。1960年代末にこの地で調査を実施した人類学者は「東アフリカでもっともアクセスが困難」(Almagor 1978)と記し,デルグ政権時代(1974-1991)の中央集権化により地方部の政治的・経済的包摂が進んだことを論じた政治学者は,その時代にあってもこの地域にはなお「ほとんど国家の統治が及んでいなかった」と述べ(Clapham 2002),2010年に発行された『ナショナル・ジオグラフィック』誌はここを「アフリカ最後のフロンティア」と特徴づけた(National Geographic 2010)。

そのオモ川下流平原が,2000年代後半から国家の開発政策と国内外の資本による投資先の主要な対象として浮上してきた。3つの巨大な開発プロジェクトが,この地で開始されたからである。オモ川上流部でのアフリカ最大規模となるギベ第3ダムの建設、多国籍企業による石油採掘、県内の十数か所で進行中の商業農場の開設である。欧米のマス・メディアや国際NGO,研究者らは,これらのプロジェクトが地域住民の生活基盤をつよく損なうものだと批判している。これに対してエチオピアのメレス首相は,2011年にサウスオモ県の県庁所在地ジンカでの演説で,「我々は牧畜民に近代的な生活を送ってほしい。牧畜民を研究者の古代生活研究の対象にとどめることは許されない」と述べ,これらの批判への対抗意識をむき出しにした。今回の派遣の目的は,これらの開発プロジェクト,とくに商業農場の建設がこの地にくらす牧畜民ダサネッチの生業活動や社会関係,自己認識にいかなる影響を与えているのかを調査することであった。

派遣から得られた知見

エチオピア北部出身のティグライ人が所有する綿花農場。綿花には農薬がまかれるため,その葉を食べた家畜が死亡したり病気になったりした,とダサネッチは語る

ダサネッチ郡では、2007年にイタリア企業が3万ヘクタールを入手してゴムなどの栽培を始め、2011年にはインド企業が1万ヘクタールを取得して2013年から綿花などの耕作を開始した。規模は1千ヘクタール程度であるが、2009年からは国内資本も参入している。2013年現在で6つの農場の契約が終わり、うち2つがすでにトウモロコシや綿花を栽培している。いずれも現政権の中枢を占める北部の民族集団の資本である。さらに、政府による1.5万ヘクタールの国営サトウキビ農場が準備中である。すべての農場は、そこを放牧地や居住地として利用していたダサネッチを半強制的に移住させて整備されたものである。

これまでの現地調査では,商業農場の建設がダサネッチに与えつつある影響について以下の3点に注目してきた。(1)経済面への影響:農場予定地からの半強制的退去や農場での雇用が人びとの経済活動に与える変化,(2)社会関係への影響:地域住民と開発アクターとの関係のあり方やコミュニティ内部の社会関係の変化,(3)認識面への影響:国家の開発イデオロギーの浸透度合いと人びとの自己認識の変化。(1)については,農場予定地から退去を迫られた人の大部分はそれに見合う補償や利益供与を受けていない。また農場が提供する雇用の数は限られており,雇用を得たとしても賃金や待遇などの労働条件は人びとにとって不満の多いものである。(2)については,コミュニティ内部では農場の受入れに当初賛成した年長者とそれに反対した若者のあいだで対立が続いている。また農場に雇用された一部のダサネッチを除くと,農場側との関係は「冷戦」状態に近い。人びとは開発アクターを「自分たちの土地を奪った存在」として捉えており,交流もわずかである。以下では,今回の派遣でとくに着目した(3)に関して記述する。

2012年8月に死去したエチオピアの故メレス首相は,2000年代半ばから同国の開発政策の基本方針を「民主的」な「開発主義」として提示してきた(Meles n.d.)。メレス首相によれば,今日のエチオピアは1960~70年代の収奪国家、1980~90年代のネオリベラリズム(構造調整)とは異なる、第三の道としての開発国家(「経済開発を政策の最優先課題とし、それを達成するための効率的な装置をデザインできる国家」)の道を歩んでいる。ただしこの開発国家は,東/東南アジア型の権威主義的開発国家とは異なる,民主的統治に依拠した開発国家であるという。メレス首相は,開発の推進のためには国内農村との連携が必須であると述べる一方で,NGOが主導する「下からの民主主義(trickle up democracy)」の可能性には懐疑的であり,開発推進のためには農民の考えやふるまいを教育や訓練により変化させる必要があると述べる。2000年代後半から始まったサウスオモ県での大規模開発は,この開発主義の流れのなかに位置づけることができよう。

開発プロジェクトが,(事後的にではあれ)地域住民の支持を集める「民主的」なものとなりうるためには,連邦政府や政権党が志向する開発の理念や内容を,地域住民へ「適切に」伝達する象徴仲介者の存在が不可欠となる。ここでいう象徴仲介者とは,連邦政府らによる開発をめぐる「大文字のことば」を,各地域の生活の文脈に位置づけ咀嚼しながら人びとに伝え,当該開発プロジェクトが住民にとって意義を有したものであることを理解させることで,政権の開発政策を彼らに支持してもらうと同時に,地域住民の生活に根ざした「下からの」意見や不満を上位の政治体や企業に伝え,開発の内容を一定程度は是正するよう要求することのできる存在である。ダサネッチにおいて象徴仲介者になりうる存在として,[1]連邦政府の国会議員や地方政府の政治家や官僚,[2]村落部で影響力を有する伝統的権威,[3]政府や企業により雇用された「コミュニティ・ファシリテーター」の3者が挙げられる。現地調査から明らかになったのは,これらのアクターがいずれも「適切な」象徴仲介者となっておらず,村落部の住民の多数が開発プロジェクトを「自分たちの生活を脅かすもの」とみなし続けていることである。

[1]の政治家や官僚については,現政権が推進するエスニック連邦制により、地方政府の要職は当該地域出身であるダサネッチが占めている。また連邦政府の国会議員として一人の割当がある。ダサネッチで学校教育が広がり始めたのは現政権時代に入ってからであるため,政治家や官僚の大部分は数年から十年前に高校や専門学校を卒業した20~30代の青年である。学校を卒業してまもない彼らは「政治の素人」であり,上位の政治家や行政とのあいだの政治的な交渉などについての経験も乏しい。実際,彼らに「なぜ人びとの生活に深刻な影響を与えかねない事業を受け入れるのか」と尋ねると、決まり文句のように帰ってくるのは「上層部がそういうから仕方がない」という答えである。つまり,郡政府の男性は「県政府がそういうから」、県政府の男性は「連邦政府がそういうから」、連邦政府の国会議員は「メレス首相がそういうから」という,「無責任の体系」とでも呼びたくなるような答えである。また町に住む彼らは村を訪問することがほとんどないし,村人によれば「村に来たときも我々が意見を述べると,「わかった,わかった」というだけで,そのあとはなにもおこらない」という。ある村人は「町にくらすダサネッチはダサネッチではない。高地人だ。私たちに彼らのことばは理解できないし,彼らは私たちのことを知らない」と述べる。

[2]の伝統的権威とは男性年長者のことを意味する。ダサネッチにおいて男性年長者はつよい祝福と呪詛の力をもつ存在であり,人びとは彼らにおそれを抱くとともに敬意を示してきた。地方政府や農場主は年長者が開発を支持するようになれば,ほかのダサネッチもその決定に従うと考えたため,彼らに現金や物品を供与した。そのことも影響して,農場建設が開始する際には年長者は先陣をきってそれを受け入れた。しかしほかの成員,とくに若い男性はむしろそのような年長者に対する不信感をつよめたため,年長者の権威は低下し,その決定の影響力も弱まりつつある。

[3]の「ファシリテーター」は,商業農場にはおらず石油開発やダム建設に関してのみ設けられている。彼らも政治家らと同様に近年になって高校程度を卒業した若い男性であり,とくに英語が得意な人物が就いている。彼らはコミュニティの意見を集約して政府や企業に伝えることが仕事だとされるが,一人のファシリテーターのことばによると「もしも開発プロジェクトに対するダサネッチの不満などを伝えると,政治家らは不愉快になり,わたしを解雇するだけだ。だからいつも「住民は,はいわかりましたと言っています」と伝えるだけだ」という。

このように象徴仲介者になりうる存在は,連邦政府が目指す開発の方向性を地域の生活の文脈に置きながら人びとに説明できておらず,また住民の開発プロジェクトに対する評価を上位の行政や政治家らへ伝えることもできていない。村にくらすダサネッチの大部分は,もはや町の政治家や村の伝統的権威が「よりよい開発」をもたらしうる存在だとは考えていない。むしろ自分たちの生活を脅かす存在として,彼らは反感や不満の対象となっている。これらの不満を有した人びとを組織化して,政府や企業への抗議活動などを展開する別のアクターとなりうるのが,国際/ローカルNGOである。しかし,エチオピアでは2009年の布告により国内でのNGO活動にきびしい制約が課されているため,サウスオモ県での開発プロジェクトに反対の意思を表明したり,地域住民の意見をすくいあげるローカルNGOは存在しない。国際NGOは欧米を舞台とした反対運動を展開しているものの,エチオピア国内でその運動を展開するための経路を有していない。

今後の展望

農場建設と同時進行で牧畜民の定住化政策(「村は一つ(en taata)」政策)も進行している。定住化に同意した世帯には0.5haの灌漑農地が与えられる予定である。写真にあるように,農業をするためのシャベルと水をやるためのポリタンクも与えられる。ダサネッチ郡全体で2728世帯の定住化をおこなう方針だという

ハイレ=セラシエ帝政期からエチオピア政治を分析してきたC.Clapham(2006)は,エチオピアが国家として相対的につよい力を有しているにもかかわらず,歴史的に開発に失敗し続けてきたことの背景には,政府上層部による権力へのつよいこだわりが作用していたことを指摘している。また,エチオピア政治を周縁地域の視点も取り入れながら長きにわたって観察してきたJ.Markakis(2011)はその近著で,エチオピアが国家として成熟に向かうために乗り越えられるべき二つのフロンティアとして,政府上層部による権力独占の傾向と牧畜民が生活を営む低地地域を排除する傾向の二点を挙げている。2000年代後半からサウスオモ県で進められている開発プロジェクトの現状をみると,この二つのフロンティアの乗り越えは困難なことがわかる。地域住民の生活のあり方に配慮することのない政府上層部による「上から」の命令をとおして,牧畜民の生活を「近代化」していこうという姿勢が,牧畜民の周縁化をますます促進しつつあるからである。

「よりより開発」がもたらされる見通しをもちえないダサネッチは,いらだちをつよめている。2011年には農場で作業している二人の移住労働者をダサネッチの若者が殺害する事件が起きた。このときには,州都アワサからすぐに多くの警察官が派遣されて混乱の拡大を防いだ。ダサネッチの現状は,このような不満を有した個人が散発的に暴力を用いた抵抗を試みる可能性を内包したものであり,その突発的な暴力を契機に人びとが集団規模でより大規模な抵抗を進めていく可能性も内包している。地域住民の支持を得ないままに断行され,彼らの不満をすくいあげる経路をもたないままに展開される開発プロジェクトの基盤は脆弱なものにならざるを得ないのである。

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